
楽しんでほしいんです
「楽しんでほしいんです」
そう言ってくれたのは、治療家さんだった。
その頃は、仕事で体がしんどくて仕方なくて、月に2回ほど整体院に通っていた。
その治療家さんは、人の体にも心にも感性が深い。
体の状態と話の内容から、私の問題を見抜いたのだと思う。
いつも未来に怯えて緊張していた私は、心の底からリラックスして、楽しむことができなかった。
自分が楽しんでいいとも思えなかったし、幸せになることをゆるされているとも思えない。周りの人の不機嫌を受けて、責められるままにすべて自分が悪いと錯覚してしまう。囚われた心だった。
かの有名なヘレン・ケラーは、あるときまで「水」の意味がわからなかった。見ることも聞くこともできなかった彼女は、水の概念がつかめなかったのだ。家庭教師のサリバン先生が、井戸でヘレン・ケラーの手にあふれるほどの流れる水を浴びせて、彼女は初めて「水」という言葉の意味を理解した、という印象的なエピソードがある。
見たことも聞いたこともない、“感じたことのない”ものを人が理解することは難しい。
私にとって、心からリラックスして楽しむということ。自分がそのままで安心していられること。それがどういうことなのかが、感覚としてわからなかった。
そして、「わからない」ということに、私は気づいていなかった。
自分の感覚や、想起するものが偏っていること。それは、自分の世界ではあまりにも自然すぎて、「不自然」であることに気づかない。
そこに気づくには、やっぱり、生きてきた背景が違い、考え方や感じ方が異なる、他者の存在が不可欠だと思う。
他者の考え方や感じ方。
そこに正解があるわけではない。
でも、お互いの違いを知って、違う生き方を知ることで、自分にとってより良い生き方、考え方を模索することができる。
そしてお互いがより素晴らしい人生をつくるために、認め合い、影響し合い、良くなろうと変化していくこと。
それが、成長だと思う。
子どもの頃、「おとな」というだけで、自分より何もかも知っていて、わかっていて、偉いんだと思っていた。
無意識に、支配権を相手に持たせていた。
でも、年を重ねるだけでは、「おとな」になれない。そんな当たり前のことを、自分が「おとな」の年齢になって、知る。
私が楽しめないのは、自分より、他者の機嫌や判断を優先している結果だ。
しかし、自分が顔色を伺っていたその“相手”は、私のことが見えていただろうか? 自身のことをしっかり見つめていただろうか? そしてより良くなる未来が見えていただろうか?
もし、その判断やルールが、その人自身の一時の不機嫌から目を逸らすために選択されたものだとしたら? その人自身の弱さから、立場を守ることに重点を置いて示されたものだとしたら?
それでは、その判断に怯え従う私は、自分のいのちの力を使うことができないばかりか、何も未来に良い変化を生み出すことができない。
そしてその「私の判断」は、相手の囚われに一緒にはまり込むことであり、相手のためにもならない。
結局、私のいのちに一番背いていたのは、私だったと気づいた。
自分が楽しむこと、よろこぶこと、自分のいのちに感謝して、明るい未来を選択して生きること。
それらはすべて、私自身のちからを信じることから、そして、自分を尊重することから始まる。
それだけのことが、私には、本当に難しかった。
今も、向き合い続けている。
「楽しんでほしいんです」
この言葉に込められた優しさが、
日を追うごとに、自分の中の奥深くまで、
浸透していく。
この言葉と、その向けてくれた想いを、
私は一生忘れないと思う。