父が亡くなって1ヶ月が経ちました

去る2020年4月1日、エイプリルフール

父が亡くなりました。

そして、本日5月1日で1ヶ月が経ちました。

父の記憶をインターネットにも残したいと思い、このnoteを書きます。

本当に長いのでお気をつけて、内容は私の自己満足です。

父の病気と死について

父はパーキンソン病という病に侵され、55歳という若さで早期退職し闘病生活を送っていました。パーキンソン病は治療方法が現在の医学では無く、進行を遅らせるという治療がメインです。

闘病生活といってもそれほど壮絶なものでは無く、じわじわと悪くなっていくという感じです。

パーキンソン病は身体の筋肉が固まっていくという病気で、だんだんと動くのが不自由になっていきます。

人間は動かないと、いろいろなところが悪くなっていくもので、父も様々な病気を併発していました。

また、家族を悩ませたのは「レビー小体型認知症」で父の場合は短期的な記憶障害や、見えないものが見える幻視などの症状がありました。

そして、昨年の9月。夜中に突然の腹痛を起こし、下痢が止まらない状態になってしまったので病院へ電話し相談したところ、夜勤の先生は内科じゃないから診れない、水を飲ませて安静にして朝に症状が変わらなければ救急車を呼んでください。と言われそれを受け入れてしまいました。

父は一晩中苦しんだり、落ち着いたりを繰り返しました。朝を迎え、すぐに救急車を呼び、地域で最も大きい病院へ輸送されました。

到着するとかなり危険な状態にある。すぐに手術だと言われ、もし死亡したとしても責任は問わないという書面にサインをし、手術室に入るときには顔を見てあげて下さいと言われ、家族全員が死を覚悟しました。

手術の結果、父は一命を取りとめました。

良かった。

原因は大腸の膨張。パーキンソン病の患者は大腸が膨張することがあると、主治医の先生にも言われていました。

確かに父のお腹は、臨月を迎えた女性のように膨らんでいましたが、家族はメタボだと思っていたのでした。

手術の結果、大腸は全て摘出されて人工肛門をつけることに。

だんだんと回復していった父はやがて話せるようになりましたが、ベッド生活で認知症はすごい勢いで加速していきました。

緊急手術をした病院は1ヶ月半で退院し、地元の病院へ3ヶ月、そして次の病院が見つかるまでは介護施設へと転々と移動することとなります。

病院に3ヶ月しか入院できない制度、どうにかなりませんか?
転院先が見つからず、右往左往したことを今でも覚えています。

介護施設に入ると、父の容態は少しづつ悪くなっていきます。病院で受けていたパーキンソン病の治療が受けれなくなったのが原因です。

段々と動かなくなり、床ずれを発症。パーキンソン病も悪化となり、元入院していた病院へ戻ることとなりました。

転院する日、介護タクシーを呼び、父に声をかけ転院先まで追いかける。

そして、その日が父の最後の声を聞く機会になるとは思いもしませんでした。

新型コロナウィルスにより、転移先の病院は厳戒態勢で、タクシーから降ろされた父はそそくさと病室へ運ばれ、家族は会うことができませんでした。

そして、お見舞いも禁止されたのです。

父がな亡くなる1週間前、私の携帯電話が鳴りました。

「父の容態が危ない」

びっくりした、私は家族を連れて病院へ急ぎます。
病室につくと、看護師さんが言います。一時期、呼吸が止まったが、今は正常に戻ったので大丈夫なのだと。

およそ一ヶ月ぶりに父との再会。
酸素吸入器を付けた父の意識はありません。

2時間ほど病室にいました。

看護師さんがやってきて、父の生命について決定権があるのは誰ですか?と問われる。

私と母が話を聞くことに。
もしもの場合、生命維持装置を使うか。人工呼吸、心臓マッサージはするか。と聞かれました。

その時、私と母はもう長くないのだと悟りました。

一瞬だけ母と眼が合う。

「もうこれ以上、苦しめたくないのでそういった装置は使わないでください」

母は言いました。私もしずかに頷く。
苦しそうな父はもう見たくないのです。

3月30日

夜中に再び携帯電話が鳴る。病院へ急ぐ。
心臓が止まった。と連絡。

病室へ行くと、またも容態は戻っていた。

良かった。

そして、4月1日。


夕方、父の病室に行った私は容態を母に聞きました。

静かに眠ってる。声をかけても反応がない。とのこと。

血圧は50を下回り、危険な推移を続けている。


一週間前から毎日病院へ通っている母と祖母の健康も心配な私は、ご飯を食べに家に帰ろうと母と祖母を連れ出す。

P.M.6:10

帰宅

P.M.6:48

ご飯の準備をしていると、再び携帯電話が鳴る。

家族全員を連れて病室へ。
ついにこの時が来てしまったんだと感じた。

P.M. 7:22

病室へ走り込む。
看護師が酸素を父に送っている。

心臓が止まった。。

声をかける。お父さん!と。

また心臓が動き出す。

看護師は言う、いつ心臓が止まるかわからない状態なんだと。

父の妹にあたる、親戚に電話。
もう危ない状態だと伝える。

親戚が来るから、頑張って!!と家族全員で声をかける。

少しだけ安定した。
父は頑張っているのだ。。

P.M. 8:18

親戚が到着。

もう危ないと伝える。

P.M. 8:26

また心拍が乱れはじめた。
ナースコールを押す。

祖母は頑張れ!と声をかける。

「おばあちゃん、お父さんはもういっぱい頑張ったんだから、休ませてあげて。」

「そうだね。そうだね。」

「お父さん、頑張ったね、もう休んでいいんだよ。みんな、近くにいるよ。」

父の顔を見ながら、胸をポンポンと優しく叩く。

心臓が止まった。

P.M. 8:55

父は永眠した。

私と父

ここで少しだけ私の話を。

私は養子です。

父と母の間に子供ができないため、3歳のときに養護施設から養子として貰われてきたと聞いています。

そんな私を実の息子のように可愛がってくれている家族に今でも感謝しています。

父は本当に子煩悩で、それが原因で喧嘩すらしたことがあります。思春期の私にとって息子好き好きすぎる、父がうざかったのでしょう。今ではとてもいい思い出です。

そんな父との思い出は沢山あります。

どんなに忙しくても自分と遊んでくれる父。

適当な昔話を即興で作って聞かせてくれる父。

叱るときはやり過ぎて手が出てしまう父。

夜寝ていると、お髭ジョリジョリ攻撃をしてくる父。

旅行先ではええカッコしてお金を使いすぎる父。

歌を歌うのが好きな父。

なんでもDIYで作ってしまう父。

戦艦大和のプラモデルを改造してラジコンにする父。

昔バンドマンだったらしいけど、その過去だけはひた隠しにしている父。

下ネタが大好きな父。

家族が大事で、心配性な父。

お祭り事が好きな父。

もっと書けるけど、このくらいにしておきます。

父への感謝

本当に父には感謝をしています。先にも書きましたが、私は父と母に連れられて今の土地に来ました。

それがなければ、今は別な人生を歩んできたでしょう。

この場所にいるのも、友達や妻に出会えたのも、会社を起こすことができたのも、仕事をともにできる人々に出会えたのも。

すべて父のおかげだと思います。

最後に

入院生活を続けていた父が言った言葉が忘れられません。

父が介護施設に入居した日、看護師さんや介護士さん、ケアマネージャーなど多くの人が集まり、ケアプランについて家族と相談します。

父の部屋で人が沢山集まったとき、父は嬉しそうに看護師さんに言ったのでした。

俺のせがれ、いい男だろ?
俺のヒーローなんだ。

お父さん、僕はヒーローになれるよう、頑張るね。

サポートでいただいたものは、自分磨きに使っちゃおうと思います。もしくは自費出版でもいいかも。