苦しみの溶け込んで消えた夜と朝の繰り返しの日々のなかで。
どうしたらよかったのだろう。どうすれば、みんなで車に乗ったまま、春の光が降り注ぐようなあたたかい道を、走り続けられるのだろうか。
宇佐見りんさんのくるまの娘を読んでから、ずっと考えている。
親に向いているのか、親になっていい人間なのか、子どもを作る前にその適性を見る試験があるとして、どのくらいの人が合格できるのだろう。
そもそも、誰が判断するのだろう。明確な答えなどないのだから、判断する人によって、きっと結果は変わってしまう。
そんなことを考えたところで実際にはそんな試験などなく、誰もが平等に子どもを産む権利を与えられているこの世界で、どうしたら続く地獄に苦しむ子どもが、家族が、減るのだろうか。
考えても考えても、わからない。私が考えたところでどうにもならないことも知っている。でも、考えることを止められない。
みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押し付けられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない。
だが、愛されなかった人間、傷ついた人間の、そばにいたかった。背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているのに。
苦しい苦しい苦しい。痛いことをされても、ひどいことを言われても、それでもともに地獄を抜け出したいと強く思うこの子の願いが、叶ってほしいと願わずにいられない。
父親も、母親も、兄弟も、この子も、みんな苦しんでいる。でも、苦しんでいるからと言って、誰かにその苦しみを、それ以上の苦しみを、ぶつけていいわけがない。家族でも。どこかに全員丸ごと救われる方法はないのか。
【家族だって捨てていい。辛ければ逃げてもいい。】
そんな言葉で、そんな方法で、救われる人ばかりじゃないということ。
私はこの本を読むまでそのことを分かっていなかった。みんなつらい環境から逃げたい(一人ででも)と思っていると、思い込んでいた。そういう人もいるし、そうではない人もいるということを、ちゃんと考えてこなかった。依存だ、の一言で済ませようとする人たちに限りなく近いところにいて、逃げることさえできれば少しは楽に生きられるのではないかなどと、そんなことばかりを考えていた自分が恥ずかしい。
考えてもどうしようもないと知っていても考えることを止められないし、いくら考えたところで答えなど出ない。でも、考えることをやめたくない。だってこのお話は、紛れもなく現実だから。もしかしたらこの家族は、未来の私たちかもしれないから。