『関西弁で読む遠野物語』その2|『遠野物語』って、ほんとにあった話ですか?
ーー『遠野物語』は、「河童」とか「ザシキワラシ」のような妖怪がよく知られてますけど、全体読むと、噂話のようなものから危険を避ける知恵みたいな話もたくさんありますよね。『遠野物語』っていうのは、大人が子どもに語るお話なんですか?
この本の最後にも「昔々」という章があるんですけど、昔々っていうのは昔話。この前の114話は昔話やない。序文の有名な一節で「これは現在の事実である。目の前の出来事である」という風に柳田は言っている。
佐々木喜善が、お父さんとかお母さんから聞いた話は、大昔の話とちごて自分たちが体験した話。遠野では今現在、目の前で起こってる出来事だというのが前提にあって。だから、民話とか昔話っていうのとは違う。現在の事実、目の前の出来事がずーっと起こり続けてるっていうことも言えるし、いつとは言えないけど、同じことがこれからも続くであろうというふうなことは、最初に言ってるんです。
それを、どういう風に解釈するかっていうと、21世紀の今、現在でも、不可思議な出来事、不条理な、あるいは腑に落ちない、割り切れないような出来事、残酷な出来事っていうのは、起こり続けている、というような読み方を柳田はしてる。
だから、東北の話を東北弁のままでやると地域に限定してしまう。かといって、その時代に標準語にすると近代的になってしまうと感じたんやないかなと。いろんな理由から文語体にしたんやけど、親から子へ、お祖父さん、お祖母さんがお孫さんに語って繋げていくってことが形成されてきたわけやから、それを語り言葉に戻すのは自然なことではないかと思うんです。
ーー「事実」という言葉がありましたけど、狐に騙された話とか妖怪の形をとって出てきたりとか、完全な事実ではないですよね。
いや、ほんまに事実ですよ。(笑)
例えば、河童なんかは実在するかっていう話になるけど、僕は実在したとしかいいようがない。民俗学者のなかには、実在しないということを大前提として河童について考える人もいてるけど、僕の場合には、河童を見たとか、河童に触られたとか、河童と相撲を取った体験談が、日本の各地にこれほどの数があるのに、河童がいなかったっていうことの方が信じられへん(笑)
『遠野物語』の河童は、典型的な頭にお皿をのせて甲羅を背負った河童というよりは、河童の子どもを産んでしまったとか、おぞましさとか。河童の実在っていうか、河童を体験したということを、みんなして伝えたかった。それの衝撃、それのおぞましさ、不可思議さっていうことをね。河童にしても天狗にしても。間違いなく実在したんです。
柳田国男の初期の著作に『幽冥談』っていうのがあって、池原香雅っていう江戸時代の歌人が、兵庫県の播州で天狗と出会う。天狗っていっても鼻が高いとか嘴があるとかじゃなくて、存在そのものを天狗だというわけ。
その天狗に池原香雅が、「あなたは、どこに行こうとしてるんですか?」って聞いたら、「村を焼きに行こうとしている」と応えるから、もう、びっくりして。「あちらの村は清らか、こちらの村は穢れてる。これから穢れた村を焼く」って言って指差した途端に、その村が焼けたと。
池原香雅の生没年からしたら、柳田が書いた時点で、まだ、数十年しか経ってない。柳田は、こういうことは日本の各地であっただろうっていう言い方をするわけです。天狗のような超能力をもった存在。そういうことは、当たり前にあっただろう、という言い方をしてる。
ーー天狗は、よくいわれるように、外国の人だとか、誰か分からない、見たことない風貌の人を天狗に表したということはあるんですか。
天狗にしても河童にしても、いくつかの発生由来っていうのがあって、そういう地域もある。例えば河童については、橋とか堤防とかの工事をするために重労働につかされてた人たちだって話もあって、大阪ではガタロっていうたりする。
上方落語で有名な「代書屋」って噺があってね。ガタロって言われてる人が自分の履歴書を書いてもらう。で、「どこに住んでんの?」って代書屋が訊いたら、「あっち」とかね。とにかく要領を得ない。「前の仕事は何してましてん?」って訊いたら「ガタロ」やて。「ガタロて、なんやねん?」「知りまへんか? ガタロいうたら川ん中、潜って泥の中から鉄とか取ってくる仕事ですやん」とかいうのをもっともらしく「川をさらいて鉄を取りたる仕事」みたいに書いたげる。「代書屋」って、上方落語では、かなり有名なタイトルでね。YouTubeで観てもらったら、枝雀のなんかはほんまにおもろいです。(笑)
で、ガタロというのは、人がしたがらない過酷な仕事。例えば東京の合羽橋の河童なんかも、まさにそう。その辺りの川は、しょっちゅう氾濫する。何やっても溢れてしまうと。それを何とかしようとしてた人がいたんですけど、見かねた河童が仲間を引っ張ってきて手伝ったと。一方で、人形が手伝ったって話もあって。人間に手伝わしたっていうと残酷だから人形に手伝ってもらったという伝承もある。そこで浚渫工事とかに使った人間と河童っていうのが繋がってくる。
天狗に関しては、『遠野物語』の天狗の一部と山人の一部は、先住民族ではないかという説がある。柳田国男は河童より先に天狗の方に興味があって、日本列島には稲作農耕民族以前に先住民族がいた。山に住んで、山人として恐れられてるのが里に降りてきて女をさらったりする。あるいは、山に入ったら襲ってくるような、山人とか山姥とか山男とされてるような人たちを先住民族の生き残りだったというふうなことを考えてた。これについては、南方熊楠との間にも結構な論争があったんです。近年でいうと柄谷行人が、柳田の「山人観」、社会っていうものは差別される人を含めて構成されてるというようなことは、柳田の一番本質的な部分だってことを、この何年間か言い続けてる。それは、「世界を読み取るカギ」だというようなことも。
天狗で一番有力なのは、修験者、山伏という説。格好なんかもね山をすごい勢いで走ってくとか特殊な能力を持って、各地を祈祷して回ったりね。そういうものとオーバーラップしてる部分もあります。
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