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ありがたい音楽(ラブシャのスピッツ)

 スイートラブシャワーの8/31に友だちから誘われたときは、「遠いしなあ」「お金ないしなあ」「暑いしなあ」「山の天気は読めないしなあ」「自分で選ぶなら出演者的に8/30か9/1だなあ」だったけどそんなこと言ってたら一生行かないので、「行きま〜す」といって、行った。ザゼンボーイズもいたし。
 午前中は晴れて日差しが痛いくらいだったが午後から台風と関係あるのかないのか雨がふりだして、ゴーゴーバニラズを見ている四時ごろがいちばんひどく降った。わたしも友だちもほかのみなさんもテンションが下がりそうなのを空元気で押し上げているぽい盛り上がりもあり(バニラズのひとも「立ったままだと寒いから」とリハで踊らせてくれたり、伝説つくろうなーと励ましてくれたりした)、ザゼンボーイズを見に移動したら長靴が役に立たんくらいの泥沼ができてて逆にぴったりだったりなど、して、事前にいろいろ対策はしたけど大雨のなか立ちっぱなしは普通にしんどく、礼賛をみてた友だちと合流してスピッツを待つころには一旦やんでいたものの、友だちはショートブーツがおしゃかになり、わたしは耐水のはずの上着のフードはもとより下のキャップまでびしょぬれで首に水滴をぽたぽた垂らしていた。苦笑いを見合わせながら、サンダルの人を心配したり、晴れている体で会話しようとしたり、体温を保つために無駄に踊ってみたりしてなんとか待ち時間を耐えているうちにスクリーンにネクストアーティストイズ……の映像が流れ、みんなステージに顔をむけて、バンドメンバーが出てきて、スピッツの演奏がはじまった。
 ナパっとしたギターの一音目がきこえた瞬間、まわりのみんなが、
「あー」
と声ともため息ともつかないものを、あげた。煮えている鍋の蓋を開けたときあがる、いいにおいの湯気のかたまりみたいだった。「空も飛べるはず」、喜びと懐かしさと安堵がいりまじって、がちがちの肩や膝がすっとゆるんで、ああよかった、もう大丈夫、という気がした。今日の豪雨のピークを超えて、よくがんばりました、と言われているようでもあったし、それよりもっと長く大きい期間を対象に、よくここまで辿りつきました、なにはともあれね、と背中をたたかれたようでもあった。「気温が下がっています低体温症に注意してください」というスタッフさんのアナウンスをまじかーと半笑いで聞きながら、ほんとにちょっと寒いし明日の予定もあって風邪ひいたら困るし、帰っちゃいたい気もするけどせっかく来たし、午前中はあんなに晴れてたのになーなどと、不安やげんなりをいなしながらたいしたことないみたいな顔で、どんな理由であれとりあえずはスピッツを見るためにそこに立って待っていた全員の上に、ねぎらいのあったかい霧をふわっ、と降ろしてくれたようだった。

 音楽はふしぎだなーとおもう。いろんな人に聴き継がれている有名な曲があって、「空も飛べるはず」もそのひとつだということを、よく知っていたけど、いま流行りにのっている曲というわけでもなく、「フェスのスピッツといえばこれでしょ」という感じでもなく、ほとんどの曲を知っていてライブにも何度も行くような聴き手が、なかなかライブで演奏されない珍しい曲のイントロがきこえた瞬間に息を呑むようなのとも違って(むしろわたしにはこの類の歓声が一番なじみぶかい)、フェスという目的ばらばらのいろんな人が集まる場所で、雨だし、スピッツはラブシャに初出演だったらしいし、有名な曲しか知らないけどいちおう見とくかこのあとサカナクションもあるし……くらいのテンションの人もたくさんいただろう中で、あの一音目のひびきは、場の空気を一瞬でまるっと包み込んでしまったように感じられた。

 集団になるのが嫌で、だから「一体感」に対しても警戒心があり、ライブでステージの上の人からひとつの動きや声を煽られても気が乗らなかったらやらない。跳べーと言われても「跳ぶかどうかはわたしが決めます」と思う、片意地はってないでふつうにのればいいのに偏屈なと自分に呆れるときもあるけど、やりたくない。好きな曲聴くために来た場所でまでどうしてそんな周りに合わすような真似しなくちゃなんないんだと思う。気が乗ればとくにひっかかりなく素直にやるけど、自分の中にかすかでも抵抗感があるとき、一回でもむりに折ったら性格上たぶんずっと引きずって自分を嘘つき扱いする。少なくともそのライブの間は気分が持っていかれる。だからフェスなんかだと、ちゃんと楽しんでるけど、ノリは悪いのかもしれない。ときどき丁寧に「煽るけどやりたくなかったらやらなくていいよ」と言ってくれる人もいて、言われなくてもそうするけど、やっぱり気が軽くはなるので、ありがたいと思う。

 あの「あー」の嬉しそうな脱力したひびきで、心がふと満たされたのも、ありがたいなあという気持ちだった。そんなにコアなファンじゃない人にも、この曲に出会った頃の自分とか聴いてた頃の自分とかが、浅かれ深かれそれぞれあって、スピッツかあ、なんとなく見とくか〜くらいの人の「なんとなく」の部分にも、今のその人にスピッツを選ばせた過去のその人の何かがあって、わたしにもある。自分ひとりではたぶん来なかった場所に今いることや、誘ってくれた友だちがスピッツの大ファンであることや、十年くらい前に『ハチミツ』のトリビュートで知ったバンドをいま大好きなことや、『フェイクファー』ばっかり聴いてた時期があったこと、とか、ほかにも自分でも気づかないような小さいきっかけがたぶんたくさん、ある。いつ聴いてもびっくりするような澄んでみずみずしいボーカルだった。たくさんの人に聴き継がれている曲だから、スピッツだから、雨あがりだったから、湖のほとりの夏の終わりの夕暮れだったから、いろいろ理由は考えられるけど全部一個のことなんだろうなとも思う、あの「あー」は。

 当たり前だけど音楽はわたしになにかしてくれるわけじゃない。なにかしてくれたと思うのは聴くわたしが勝手に引き出しているだけで、音楽は、そこにいてくれたらほんとはそれだけでいい。わたしは自意識過剰でぐらぐらした人間だから、そのときもスピッツを聴きながら、その光を見ながら、面倒なことにも、「こんなにスピッツはやさしいというのに、警戒心なんつったってただの逆張りかもしれないし、わたしはずっとこうやっていやなやつのままなんだろうか」と漠然と感じて、胸がつまったりもしたけど、サカナクションがアンコールで「チェリー」をカバーしてくれて、「ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ」と聴いて、ズルしても真面目にも生きていけるんでした、と思って、わたしが勝手に落ち込んだり励まされたりしているあいだも、音楽はただそこにいる。いつでも聴かしてくれる。ありがたい。

帰りの高速に乗る直前の、誰もいなすぎてこわかった道路


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nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います