テンフィートのやさしさについて
やさしいひと、と聞くとき、すぐにタクマ(敬愛をこめてそう呼ぶ)を思う。かれ以上にやさしいという言葉をおくりたいひとがいない。テンフィの歌はやさしい。けれども、「ヒトリセカイ」のMVをみたひとはわかるかもしれないが、そこに、ある悲しみがずっとながれているのは、かれ自身が、自分のやさしさを疑っているからだとおもう。
かれが、もし、根っからやさしくて純真だったら、歌う根拠はないだろう。あのやさしさは、自己否定に似た暗さからはじまっている。「あなた」と呼ばれることの多い、まぶしい存在がいて、それに照らされた自分のよごれに気付き、かえりみる。強さだと思っていたものは、もしかして感じなくなっただけだったかも。やさしさのつもりだったのが、ただのエゴだったかもしれない。自分はなにかを忘れているんじゃないか。こどものころはできていたのに、今できなくなってしまったのでは?自分は、つめたい、いやなやつになってしまったんじゃないか?そういう疑問がいつまでもおわらないで、闘いになる。やさしくあろうとする。純真であろうとする。疑いをけんめいに解消しようとする。そのゆき方に終わりはない。やさしくなさを克服しようとするほど、その部分にたいする感度は上がってしまって、ああここも、ここも、まただ、全然だめだとなって、理想からかけ離れた自分を意識せざるをえなくなる。やさしくない自分を許せなくなる。だからもっともっとやさしくなろうとする。その繰り返し。成長なんか全然みえない。泥沼だ。
でも、わたしはその、ぜんぜんきれいじゃないあり方をこそ、やさしさと、純真と、よびたい。
やさしさは性格とか状態じゃなく行動なのだろう。テンフィを聴いてると、生まれつきやさしい人なんていないのかもしれないとおもう。あるところでふとなげかけられた小さなやさしさが、わたしのところに届くまでに、どれほど暗いところをとおって、目に見えない深い根を張ってきたのか、想像する。誰かを傷つけたり、冷めていたり、卑怯だったりしたことを、やさしさに変えるまで、そのひとが目をそらさないでいたもののことを考える。そういう自意識のおおきなうねり、かっこ悪いかもしれないぐちゃぐちゃの考えを、テンフィは表現することで見つめて自分も傷ついて、そして全部みせてくれる。隠しておきたいであろう部分を、なかったことにしないで明るいところに刻みつける。それが聴き手の暗部にもひびいて、自分の情けなさが身にしみてしまうけれど、かれの輝きはきっといちばんはじめにかれ自身を焼いているのだろう。あの曲たち、あの言葉たちが、わたしに向けられるよりも前に、かれの、自分自身との不断の闘いだったことは忘れないようにしたい。そのなかで生み出された言葉が、あのとき、わたしのところへまっすぐ助けにきてくれたことも。
だからわたしは自分自身を賭けてテンフィをやさしさと呼ぶ。
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テンフィのことは音楽文で一度書きました。よければ。