私記18(怒りについてのメモ)

 もうやめた仕事をまだやっていたときに書いていたもの。↓

 仕事にだいぶ慣れて自分の判断で回せることが増えるにつれて「は?」と思うことも増えてきた。右も左もわからなかった頃は、なにか食い違いがあれば自分の不慣れや不注意が原因だと思うのは当然だったし、実際だいたいそうだったし、周りも気を遣ってくれていた。でも最近、「なんでそれ先に言っといてくれないんですか」とか「こないだと言ってること違うじゃないですか」みたいに憤慨するようなことがある。初めの頃は「よくわからんけどそういうもんなのかな」と流していたことが、今になって「やっぱりそういうもんとかじゃないじゃん、おかしいじゃん」とわかってきて、流していたと思っていたこともそうじゃなくて流したふりをして堪えていただけだったのだと気づいた、そういう感じ。まあでも具体的な仕事の内容にかんする苛立ちはそう長く続かなくて、それ先に知りたかったですとか最初はこう言われてましたよねみたいに指摘すればいいことなんだけど、もっときついのは、自分の話を遮られることだ。舐め腐られている気になる。本人にはそのつもりはたぶんなくて、むしろこっちの言いたいことを予測して道を短縮してあげようとか、気づいてないっぽいから言っとこうとか、そういう合理的な気遣いなのかもしれないが、それがつらい。Aという結論のために反AやBを出した時点で「それは違うよ」とかぶせられてAを先に言われるみたいな流れ。どう思うかって聞かれたから答えているのにそれを途中で否定されることもある。自分が何も知らず何も考えていない者のように思えてくる。相手の正しさを証明するために自分が喋らされているような、耐えがたくむなしい気分になる。そういう人も見ていると上司の話は遮らずに聴いているので、やっぱり舐め腐られているのだと思う。
 このたぐいの怒りはわたしにとって新鮮だった。会社に入るまでは、話を最後まで聴いてもらえるのが貴重なことだと知らなかった。遮られたことがなかったから。今まで出会ってきた人たち、本当にありがと〜、わたしも絶対にどんなにくだらなく無駄に思える話でも遮らずに最後まで聴くぞ〜

↑ここまで先に書いていた。要はわたしが頭にきたこと、怒ったこと。ここからは今書いた。

 自分は人の話を最後まで聴くように気をつけてるけど、自分にとって有用な話とそうでない話というのを、たぶん全部聴く前から決めてしまって、その判断によって態度をつくってしまいがち、ひとは、と言いたいが全員のことなんか知らないので、わたしや、わたしの話を遮ったひとは。自分の「聴く」と「話す」の割合を先に決めてしまうというか、自分が全面的に聴く側に回るか口を挟むかを、たぶん話の内容ではなく相手によって先に決めてしまうことがありうる。上に書いた状況では相手が上司でありわたしが部下だったから、相手にはわたしを指導する役割があり、彼の中ではその役割のほうが聴く必要性を上回ったのではないだろうか。直接確かめてないし確かめるつもりもいまはないから、わからないけど、わたしがもし彼の立場になったら、つまり、ある範囲の知識や情報が自分より少なかったりある場に自分より不慣れだったりする人を、必要に応じて指導しなくてはならない立場になったら、同じことをやってしまわないとは限らない。少なくとも、今書いたような思考回路をもたないとは断言できない。ある分野での経験が自分より浅いからといって、その人の意見がすべて自分の既に通った道だとか、想定内だとか、自分と同じあるいは自分より深くまでは到達していないはずだとか、そんなことは当然ないのに。

 結論にしたらめちゃくちゃ簡単なんだがひとを舐め腐るなよってことで、あ〜なんかわたしもあのとき舐めないでくださいって、せめて最後まで聴いてくださいって言えばよかった、でも言えなかったし言わなかったんだからそれまでのこと、自分が相手を舐めてることには鈍感なのに「あ、いま舐め腐られた」ってのはすぐわかる、その非対称さはたぶんもとからそういうふうにできてるのでその点を自己嫌悪してもしょうがなくて、だからというか、それでも、自分が相手を舐めない、見下さない、もしどうしようもなくそういう気持ちが芽生えても、相手の言動が見下されて当然のものにしか思えなくても、表に出さない。内心よりもふるまいを統制する。言いたいことを予測して道を短縮してあげようとか、気づいてないっぽいから言っとこうとか、そういう合理的な気遣いが結果的に相手を見下したふるまいになる場合があることをわたしはもう知った。知ったからには再生産しない。そうやって行動に結びつけることで怒りをしずめている。しずめていける。そのことももう知った。

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nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います