もう大人なので

 塾講師のバイトしていたとき、ときどき授業をみていた小学生が、中学に上がってから、人を見下げたり揚げ足をとったり、攻撃的な態度をとるようになった。中学校という苛酷な環境で社会性を手探りに身につけようとしたらそうなるのもわかるというか、自分もそういうときあった、と思って、でもそれがいいことだとは全然思わないし、なんと声をかけていいのかわからなくて、たいていは「はいはい」とかって流してたんだけど、一度わたしに何かひどいこと言ってきたときがあって(詳しい内容は忘れちゃった)、「そういうこと言われると傷つくからやめてほしい」と言ったら、本気でびっくりした顔で、
「傷つくの?」「大人も傷つくんだね」
と、返された。そのときはわたしも二十になるかならんかくらいで自分を大人だと思ってなかったのもあって「えー当たり前じゃん」みたいに返したけど、まずそのくらいの年齢って小中学生からみたら全然大人だろうし、「大人は傷つかない」と、「だから何を言っても許される」と信じているらしい子どもがいることを、目の当たりにして、自分の小中学生のときのことを振り返って、「あー」と思った。わたしも学校の先生に悪態ついたりすることがあって(それをパフォーマンスとしておもしろいと思ってるところもあって)、でもあるとき、ひとりの先生に呼び出されて、「不快だからやめてください」と言われて、「すみません」と言って、やめた。

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい

茨木のり子「汲む ーY・Yに」抜

 大人は傷つかない、という思い込みを、大人たちのふるまいから子どもが「学んだ」のなら、それはおそらく、子どもの環境を陰に陽につくっている大人たちが、たとえば子どもにひどい悪口を言われても、「子どもの言うことだから」と聞き流したり、笑って冗談ぽくしてすませたり、とにかく真に受けないようにして、つまり子どもの悪態なんかで傷つかないように、少なくとも傷ついたところを見せないように、という規範に従っているということだろう。
 でもそうやって、「子どもだから」「まだ分別がついてないから」って受け流すのは、裏を返せば、子どもの言うことに真剣に取り合わないことでもある。自分の言葉には他者に対する力があること、それに伴って責任も生じることを、大人がまず子どもの発言を正面から受けとめて投げ返すことで、示さないといけないんじゃないのか? 自分にとって取るに足らないことが、相手にとってすごく深刻なことがある、というのは当然忘れちゃいけないことだし、同様に、相手が気軽にいったことでも、自分にとっては深刻であらざるをえない、という問題は、いくらでもある。相手の深刻さを尊重するのと同じで、自分の深刻さを相手に伝えることも怠ってはいけないんだと思う。傷つかなくなることや、傷ついたのをうまく隠せることが、大人になることだと思う必要は、ない、というか、子どもが見てるとこでそんな等式を体現してはだめで、「傷ついたのでやめてください」と伝えるとか、逆に自分がそう言われたらすぐやめるとかを、子どもに「そうしなさい」って教えるより前に大人が(子どもからみて「大人」のひとが)、ちゃんとやんなきゃならないんだろう。これは大人どうしでもそうだ。絶対にそう。子ども自身が大人になったとき、「大人になったんだから傷ついてはいけない、傷ついたところを見せてはいけない、子どもの悪口なんか笑って流せなくてはいけない」と自分を縛って、その同じ規範で他人を縛って、その窮屈さをまたその下の世代も受け継いでしまって……ということにならないためには。傷つかなくなるよりも、傷ついていいしそれを言ってもいい、というほうへ、みんなで開かれていくためには。

 もう今はしてないけど、塾なんかで働いてると、子どもの鋭さ、アンフェアに対する敏感さに試される場面がすごく多い。でも勇気づけられることもあって、前、中学生の生徒が何人かで話し込んでて何してんのかなと思ったら、その中のふたりの諍いを第三者を入れて解決しようと話し合っていた。どっちの話もきいて、落ち着いて和解しようとしていた。わたしの今までの人生でもっともまぶしい記憶のひとつ。わたしは子どもに戻りたいとか、子どもの目線を取り戻したいとはまったく思わない、ちゃんとした大人になりたい。記憶の中の彼らに、対等に話ができると、一緒に生きていけると思ってもらえるような人間をめざす。

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nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います