ガザ
虐殺が続いている。具体的にすべきことはこちらを参考にしていて、同じことを繰り返すより見てもらったほうがよいと思うから、気持ちの面で、わたしなんかが言っていいんだろうかとか、無力感から目をそらさず、かつ、飲み込まれないために、いま思っていることを書く。後戻りできないように。
ガザで起きていることに意識的になったのは松下新土さん(@fnmr_s_)というひとのツイートを見かけてからで、12月のなかごろだったが、「知った」でなく「意識的になった」と書いたのは、知ってはいたけどなんにもしなかったからだ。パレスチナとイスラエルの歴史については全然知らなかった、勉強しようと思ったこともなかった。今本を読んでいるけど、「こんなこと今さらやっててごめんなさい」と「今からでもやれるならやるべき」とを往復している。
もうひとつのきっかけはチバの死だった。訃報の衝撃がゆっくり悲しみになって染み込む時間のあいだ、同時に、ひとりの死をこうしてじっくり受け止めることが許されている一方で、ガザでの死がいまそうではないこと、自分がそのことにふれないでいる人間だということを考えずにいられなかった。知ってる人とそうでない人、好きな人とそうでない人という違いはあるけど、そういうのも言い訳になるような気がした。
虐殺が続いている。24日は初めてデモに行ったけど、大勢の人で強い言葉を一斉に叫ぶのがすごく怖くて、声が出せなかった。一緒に歩くだけでも意義はあると思って歩いたけど、わたしはこれ以外の方法を考えるべきかもしれない。
ガザのひとたちの痛みや、そこに親類や友だちをもつひとたちの痛みに、共感しているとはいえない。立場が全然違う。でも、大人が子どもを殺していて、それがあるべきことではないのはわかる。もと住んでいた人たちを殺したり追い出したりして土地を占領するのがいいはずないことも。正気でいたい。どんな事情があっても虐殺はだめだ、でも、その事情を可能な限り知って寄り添おうとすること、味方することとは限りなく似ていくけど違って、理解することと共感することは違うから、虐殺者も人間であり、つまりわたしから虐殺者に通じている道があり、「虐殺はだめだ」という断言をするならその底にある道に何度も突き刺して言うようにしないと、わたしはたぶんこの虐殺のこともすぐ忘れてしまう。
イスラエル兵が、自分が殺した子どもの遊び場で子ども用のカートみたいなのに乗って笑って遊んでいる動画を見た。そのなかでひとりがバランスを崩して倒れそうになったとき、もうひとりがとっさに手を出して支えていた。見覚えのある、親しみのある、とてもふつうの動作だった。そのふつうの手、だれかの家族の、友だちの、親しみのまったく消えていない手において、わたしも、わたしの好きな人たちも、彼と重なる。自分の行動がもし虐殺を助長するような意味を持ってしまったならやめないといけない。イスラエルは敵じゃなくて、でも、いましていることは間違っているからやめろと言わなくてはいけない、必ず自問と同時に。この期に及んでパレスチナのハマスに追加制裁なんかしている政府のことも、かつて帝国だった、そしてまだ帝国をやめられず、独裁にどんどん接近している日本の、歴史のことも、アメリカのあとをついて回るその国に住んでいて、税金を払っている自分のことも、もう考えないではいられなくなってしまった。
音楽がすき。デモに行く電車の中でずっとエルレを聴いていた。Baby you should be dancing like nothing around us、誰の目も気にせず踊っていて。踊ることは自由のことで、自由というのが、自分の心の向くままに生きるということなら、それを逃避や現状追認とは峻別しなければならない。ことし、日本で武器見本市というのが開かれていて、イスラエルで武器を作ってるエルビット・システムズと日本の伊藤忠アビエーション・日本エヤークラフトサプライがそこで協力関係を結んでいて、その場所が、バンプやラッドのライブを観たりCDJに行ったりした(今もやっている)幕張メッセだと知ったとき、めちゃくちゃショックだった。無関係ではない。わたしはわたしの好きな音楽を現実から目をそらす先にはしたくないと思う。そんな自分の怠惰の共犯にしたくはないと思う、ミュージシャンたちも、銃で撃たれたら死ぬ生身の人間だし、政治に無関係でもいなくて、それなら、わたしは、彼らが住んでいる国とか社会がよりよいものに、少なくとも虐殺なんかは絶対にないほうがよい、そのために行動するとき、彼らからもらってきた喜びを勇気としてつかいたい。「未来はどれも同じじゃなくって選んだ方に向かうんだから」とチバは歌っていた。
共感を求めて書いているのではないから、からというか、共感を求めて書かれたものであっても別に共感できないなら無理にしなくてよくて、「このように感じない自分はおかしいのか」とか思う必要もない。楽しいほうにも、悲しいほうにも、心が動くならそれを無視しないでいてほしいし、自分もそうしたい。でも感性というものを、なにものにも縛られていないピュアなものと考えるのもまた危険で、わたしが共感をもちあげる風潮に反対しているのはそれがひとつの理由でもある。「嫌いなものにわざわざふれない、そっと離れる」というリテラシーを推し進めた結果だと思うが、共感を大事にしすぎると共感できないものを無化することになりかねず、それは感性を肥大させる一方で外側へ広がろうとする可能性を殺し、エコーチェンバーを加速させる。だからこそ、自分の心の、楽しいほうや悲しいほうへ動くその動きの、どこかへ「仕向けられている」という側面にできる限り敏感になって、見たくないものをないことにするとか忘れるとは違うあり方で、共感しないならしないなりの、それを言い訳にはしない態度で、やるべきことはやらないといけないと、思う。逆に言うと、共感しなくても、鈍感でも、不感でも、全然悲しいと思えない自分にうろたえながらでも、行動は起こせるし、起こしていい。みんなが同じ気持ちでなければならないなんてことはなくて、でも、虐殺は止めなければならない。
今まで何も言ってなかったのに急にいろいろ言い始めたなと自分でもおもうけど、それは今まで無視できてたことがもうできなくなったからでいいよなと思う。虐殺に反対する。民族浄化に反対する。