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歴史の穴から見れば

 DIC川村記念美術館でやっている西川勝人の展示「静寂の響き」をみたあとのメモ。

 ガラスでできた木の実が床にごろんと落ちている。森にいたかったのがわかる。

 石膏色のいっこいっこのシンボルでできた街がある。海(貝殻の散らばる浜)があり、塔があって、塔と塔のあいだをとおると小さな劇場がある。そのうしろに再び二つの教会がある。屋根はひしゃげて斜めになっているが、それは強い力ではなくてやわらかいとがった帽子を大きな手で、上からつまんでそっとおろしたときの、重力を受けとめつつ逃がすバランスのへこみで、そういう左右非対称の塔と教会によすみを守られた小さな劇場。すり鉢を半分に割ったような形で、舞台を下から見上げる席はない。すべて上から。人間は上からのぞきこむ。教会と塔のほそくやさしく空をさすたたずまいに比べて演じられる劇はとても小さくてせまく、この時点で、俯瞰の視点をとらされたのがわかる。左手には植物のかげ、右手には暗い湖のほとりが見える。左は昼の日差し、右は夜。時間がありそうでなさそう。昼と夜の間で固まっていく街を、劇を見るように見ている感じ。

 おくに入るとガラスの木の実を縦に伸ばしたような相変わらずやわらかな曲線をもった、でも素材は石のものが立っている。さきにガラスのを見ているから「石化してしまった」という印象をうける。複数個がごろごろ転がっているのでなく一個がすんと直立していて人為的に「配置されている」という印象もある。むこうには暗い空がある。部屋は迷路になっている。相変わらずそれは街だが時間によって(鑑賞者の位置によって)間接を外されては組み替えられる。どの建築もすべて小さく凝固して化石になり、ひとの目の高さに、東西南北どこからでも見えるように置かれてあり、そこにあるという存在感が極端に「見えやすい」印象に覆われているなかで、石の木の実(作品名は「根」)は弾けたり押しつぶされたり、なにか大きな力が加わることでより無機的な規則性をもった、ゆえによりぶきみな形に変化してどかっと足元にある。別々につくられた作品なのかもしれないが並べ方でそういう文脈に見える。ほんらいの森を失った植物、さっき影だった植物、植物の奇形化。そう思うと街は廃墟に見えてくる。石の実のなかの、誰も住むことなく化石になった街。点在するシンボルしかない真っ白の街。破壊はなくて消滅だけがある。迷路をたどっていくとふいにいいにおいがして、足元に枯れかけの葉や花がしきつめられている。きゅうにメタファーでない本ものに出会うとすごくとまどう。匂いはかすかだが、まっしろの、人に見られるだけで人を住まわせない街をみたあとだと、強烈でエロチックなものに感じられる。

 その先の道には穴がある。白に赤銅色がまじっている。建築物にはつかわれていない色なので違うレベルのものなのかなとおもい、のぞくと、雲が見える。雲も石化している。そこで「いま、廃墟になった街の歴史を見ているのか」と思った。シンボルだけが目の高さに浮き上がって「見えやすく」なってしまった街。こちらから見れば、AとBとが一直線にみえ、方向を変えると、AとCとが結ばれて見える。点と点を直線上に並べてみとおしをつける、歴史化する視線が、その穴をのぞくとき自分の目にやってくる。見ることは、「見ることしかできない(住めない、さわれない、感じ取れない)」という層にそれまであったはずなのに、それが穴をのぞいたとたんひらけたものに切り替わる。そう錯覚する。でもほんとは、その穴から見えないものもわたしはたどってきていたし、住めないさわれない感じ取れないからこそ表面の陰影、石化したものの石化する前のひびき、余韻とでもいうようなものを、耳をすますようにして見てきた。そもそも植物たちはいつも足元にあるからこの高さを保っていたら永久に視界にすら入らない。枯れかけの花にかすかに残った色がなんの象徴でもなくそのままで生きていたものの痕跡であること、森にいたかった木の実が、石になって、変形してまで足元にあることも、歴史の穴をあまりにたやすくのぞいているとき、見えない。死にゆく花の匂いに出会ってとまどうくらい感官をひらくことができるのに。空は街をめぐって暗いまま夜明けに向かっている。静謐で柔らかで受動的にみえるひとつひとつの作品が、「おまえたちいつも何も見てないし感じていない」と見る側へ放ち返している。

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nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います