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そんなことはわかっていても、それでも、たとえそうだろうと(バンプのツアー)
バンプオブチキンの東京ドームでのツアーファイナルに行った。良かった!!セトリに入っていた「アンサー」の〈花のように〉という喩のことがすこしわかったので、その解釈を切り口として、近年のバンプの「お前お前お前」という勢いの由来をたしかめ、「レム」が初めてライブに登場したこととの関連を考えています。写真はライブ後の半月(失敗)。
花のようにある(アンサー)
「アンサー」はファイナルの二曲目。一曲目の「Sleep Walking Orchestra」が終わると同時にバンド名とツアータイトルがスクリーンにばーんと映る演出があって、ついに始まった!という視界のひらける高揚感をひきつぎ、さらに持ち上げる音の運びだった。
この曲の歌詞は、〈今目の前にいる〉ことにできるかぎりの光をそそごうとしていて、言葉はそのためにつくされる。
心臓が動いている事の 吸って吐いてが続く事の
心がずっと熱い事の 確かな理由が
砂漠の粒のひとつだろうと 消えていく雨のひとつだろうと
貰った名も知らない花のように 今目の前にいるから
砂粒とか雨粒とかは、とるにたらない存在のことだ。無数の中の一でしかない、その去就を誰も気にかけない、大きな視点からは見えないほど小さく、一瞬で消えてしまう。人間はすべて一面でそうである。誰も飛び抜けて重要でなどない。同時に他方では、だれもが代わりのいない唯一の存在でもあり、この二つはどちらかを任意に選べるものではなく、どの人も二つの間を行き来しながら生活している。けれども人によっては、また状況によっては、取るに足らなさのほうが大きく膨らんで存在を覆いつくしてしまうことがある。自分は誰にとっても大切ではない、消えても誰にも気づかれない、どうでもよいものだと感じることがある。
「アンサー」はそのことを否定せずに取り上げる。〈だろうと〉は「たとえそうだろうと」であって、いちおう仮定形だが、砂粒や雨粒であることは誰しもにとって一面での事実だし、とりわけそれを全面的な事実と感じてしまっている人には、これはまったく仮定でない、まっすぐな指示語になるだろう。
そんな砂粒、雨粒を、「アンサー」の歌詞は〈貰った名も知らない花〉にたとえてみせる。
砂、雨にさらに重ねるので過剰にみえるが、「花」の比喩はきわだって重要である。というのも、ここだけ〈のように〉がついて比喩であることが明示され、したがって、砂粒や雨粒を〈花〉として見ようとする歌い手の意志がはっきりと介在するからだ。比喩は対象の姿を説明していながら、実はそれよりもむしろ、比喩をつかう側の視線のありかたや感性の形のほうを照らす。
花は、始めから花としてあるのではない。種から芽が出て、茎を伸ばし葉を出し、枯れずに死なずに育ってきた過程が必ずあって、そのひとつの帰結としてひらいている。取るに足らない砂粒や雨粒たちも、ほんとうはというか当然、それぞれに固有の歴史を抱えているはずだ。歌い手はそれを見ようとしている。目の前にいる相手は、そこに突然現れたのではない。生まれてからこれまで、さまざまに感じ、考え、行為し、枯れずに死なずに生き抜いてきた過程がある。本人にしかわからない選択が膨大に積み重なったひとつの帰結として、〈今目の前にいる〉のだ。
こうした厚みと奥行きをもつ存在として相手を受けとめようとする意志から、〈花のように〉という喩は選ばれる。しかも〈貰った〉というのだから、相手がそこにいることは歌い手にとって贈り物であり、恩恵なのだ。「アンサー」はこうして〈今目の前にいる〉ことを祝福する。〈砂漠〉〈雨〉という広漠とした遠い情景のあとに、〈貰った名も知らない花〉でぐんと手元に戻ってきてピントが合い色がつく、このフォーカスの動きも、〈今目の前〉をくっきりと鮮やかに見せるのに役立っている。
〈名も知らない〉はこの場合、固有名がないという意味ではなく、逆に、固有のものたちをひとまとめのカテゴリにしないでいられる、ということだろう。名前を知らないからこそ、色や形や匂いをしっかりと感じ取ろうとするように、「アンサー」は目の前の相手にじかにふれ、存在を確かめようとしている。
砂粒や雨粒である事実は変わらない。誰しもがある面では全体の一部でしかなく、ひとしなみに重要ではないという事実は動かない。〈誰が消えても星は廻る〉(Sleep Walking Orchestra)。けれども「たとえそうだろうと」、今目の前にいる事実に立ち返れば、そこに〈いる〉こと、存在すること自体が、内側からそれ自身の力によって花のようにひらく。〈今目の前にいる〉ことの輝きは、その瞬間だけであっても、ひとりひとりの取るに足らなさを圧倒する。それにふれることが生きていく理由になってしまうくらい、強い輝きである。
ずっと一緒にはいられない(You were here)
「アンサー」に限らず、バンプはむかしからライブで歌詞をひんぱんに変える。ボーカル藤原の即興らしいが、共通する方針?傾向?を聴いている限りでまとめれば、「いま、ここ、あなた」になるだろう。まさに進行中のライブの場や、そこにいる聴き手ひとりひとりに向かって、曲のもつメッセージが明確に方向づけられ、結びつけられる。〈ある〉から〈いる〉への変更も疑いなくそうである。
最近のバンプはこの「いま、ここ、あなた」への指向がとても強い。最新アルバム『Iris』のタイトルには見つめ合いの意味がこめられているし(※1)、「SOUVENIR」「strawberry」「窓の中から」など、聴き手や、聴き手と出会う場への思いがわりにはっきり歌われた曲も多く、インタビューやラジオでも繰り返し明言されている(※2など)。今回のツアータイトルもrendezvous=待ち合わせ。
聴き手へじかに向けた曲が作られ始める端緒を探せば、十年前の「You were here」に行き着く。ファイナルのアンコール一曲目にも選ばれた。
「You were here」はリリース前にライブで初披露されている。ツアーWILLPOLIS2014の、今回と同じく東京ドームでのファイナルだった。その数時間後、日付が変わると同時に配信された。
WILLPOLIS2014はアルバム『RAY』のレコ発ツアーだったが、そのかたわらでバンプはMステに出たり初音ミクとコラボしたり、いろいろ新しく挑戦したし、そのたび聴き手のさまざまな反応を受けとめ、動機を説明するなどして応答し返していた。ツアーに関しても、たしか「BOC-AR」というスマホアプリをインストールした状態でライブに行くと、公演後、「〇〇(自分の名前)was here」という文字入りで当日の記念写真がもらえた。そういうバンドと聴き手とのやりとりが重ねられたすえの、締めくくりがバンド初のドーム公演だった。楽しみも寂しさも高まらせていったのは聴き手の側だけではなく、この公演は「WILLPOLIS FINAL」という独立した名前がつけられ、特設サイトではカウントダウンが(一か月だったか一週間だったか)毎日出されていた。それがとうとう始まり、そして終わってしまうその日の、本編最後の曲として、藤原は「やっと歌える」と呟いて「You were here」を歌い出したのだった。WILLPOLISの期間を通して変化し明らかになっていった聴き手への姿勢を、象徴する曲である。
「You were here」は、低くこもったベースとキックの音で始まる。耳をふさいで自分の鼓動を聴くような響きである。歌詞は、ライブが終わってからひとりで眠りにつくまでの様子をまずえがき、こう続く。
君の声が聴こえた事
瞼の裏に光の記憶
まだ消えない 消えないよ
まだ輝いたままだよ
でもいつか消えちゃう 消えちゃうよ
こんなに
今こんなに愛しいのに
出会えば必ずさよなら
そこから伸びた時間の上
また会いたい 会いたいよ
もう会いたい 会いたいよ
君がいるのにいないよ
君の昨日と明日に
僕もいたい
ライブの興奮の後の放心、記憶が薄れていく喪失感、どうしようもない恋しさなんかが、たいへん直接的に、正面から歌われている。
〈君の昨日と明日に僕もいたい〉。〈君〉を聴き手、〈僕〉を歌い手とすれば、これは物理的にできないことである。けれども〈僕〉の歌う曲にはそれができる。だからここでの〈僕〉は、歌い手であると同時に曲じしんの一人称にもなる。もどかしさと期待との両方が〈僕もいたい〉にかけられ、〈ラララ…〉の中で混ざりあったすえに、〈もう消えないよ〉を経て〈そこから伸びた時間の上を歩くよ 全て越えて会いに行くよ〉へたどりつく。だから最後には未来へ向くまなざしが示されておわる。
けれども、この曲を出発させ、進ませているのは、何よりも寂しさのほうである。忘れたくないのに忘れる。離れたくないのに離れる。せっかく会えたのに。いようと思えばあんなに近くにいられたのに。そういう寂しさのほうだ。
割り切った言い方をすると、〈そこから伸びた時間の上〉というのはあくまで理屈で、寂しい!一緒にいたいのに!という大きな思いにいったんやり場を与えるものだ。いったんなので寂しさは解消しない。破綻のない理屈がすでにあっても、いくら自分に言い聞かせても、寂しさは消えない。そこから伸びた時間の上なんだから……でも寂しいのはどうしようもない、なんで一緒にいられないんだ!すべて越えて会いに行く……それはそれとしていま寂しい!離れたくない!無理!!
わたしが最初にバンプに惹かれたのは理屈の(当時のわたしにとっての)明晰さだったが、理屈はけっきょく抽象になる(※3)。〈名も知らない花のように〉他者を見つめようとするとき、その意味で理屈は障害になる。〈今目の前にいる〉具象、見え聴こえさわれる近さが重要になっていき、それを求める思いも強くなっていけば、理屈が占める位置は軽くなっていくだろう。理屈はわかってる、それでも寂しい、それでも会いたい!
これが、近年の「いま、ここ、あなた」モードを駆動する力だと思う。「それでも」「たとえそうだろうと」のエネルギー、つまり、「いま、ここ、あなた」という中心のまわりにある壁を可視化し、さらにいろいろな方向から突破していく力だ。
それでも話したい(レム)
今ツアーでたぶんもっとも客席をざわつかせた「レム」がセトリに入った意味も、ここから考えることができる。
「レム」は『ユグドラシル』(2004)のアルバム曲だがなんと今ツアーが初演らしい。否定的な調子の曲だから、客前で歌いにくいとか、セトリに入れにくいとかならなんとなくわかるが、今ツアーではいきなり全公演で演奏された。歌詞はそのまま、曲は大幅にアレンジされ(後述)、セトリの中で大きな存在感を放っていた。
これには、最近聴き始めた人に「ぼくらこういう面あります」と紹介する意味もあるだろうし、昔から聴いている人に「こういう面まだ持ってます」と念を押す意味もあるだろう。近頃のリリースがほとんどタイアップなので、マニアックなとこも出しとくかというバランスかもしれない。
その上でわたしが注目したいのは、「いま、ここ、あなた」への指向を「レム」も持っていることだ。しかも他の曲にはないアプローチをとっている。「アンサー」のような輝かしさとはまったく逆の、あくどいほどの嫌悪から「レム」は出発する。
狂ったふりが板について 拍手モンです 自己防衛
それ流行ってるわけ? 孤独主義 甘ったれの間で大ブレイク
意味は無いとかごまかすなよ 汗まみれでよくもまあ
爪先まで理論武装 何と張り合ってるんだか
誰と戦ってるんだか
他者と接触することはしばしばとても怖い。望まない自分のくだらなさが見えてしまうからだ。卑小さをばれたくないという防衛から、他者との間に理屈を挟んでじかに向き合わないようにすれば、自己像の安寧はいちおう保たれる。けれどもそれをやり続けると、他者も、やがては自分自身も見えなくなる。それは欺瞞だと「レム」はいう。
今更何を怖がる 嘘を嘘と思わずに
人を人と思わずに
三回あるBメロで、〈汚れてしまった〉〈忘れてしまった〉などと呟く〈誰か〉がすべて自分自身であるとすれば、間違えていることはずっとどこかでわかっているのだ。手を替え品を替え自己防衛に汲々とするあいだも「違うだろ」という意識は生きている。
原曲では遠く小さな呟きだったこの声は、今回のライブアレンジをとおして、逃れがたい強烈な自覚として現れた。
キャンバスに塗り潰した跡 そこに何を描いてたの
生まれた事を恨むのなら ちゃんと生きてからにしろ
このあとから曲調は一変し、襲いかかるような激しいバンドサウンドが始まって、長い間奏になる。原曲ではここに間奏はないが、少し前の位置に遠くでがなる歪んだギターの音が入っており、それが今回厚い膜を取り払われて露出したようでもあった。予感は現実へ、苛立ちは怒りへと、よりはっきりした色彩と動きを与えられてボルテージが上がったところへ、満を持してやってくる声も、有無を言わせない強く大きな声になっている。
誰かが呟いた 「気づいてしまった」
慌ててこっそり逃げた それも気づかれたぞ
自分は〈ちゃんと生きて〉いないと、どんな〈ふり〉もすべて知りつくしている自分を欺き通すことは決してできないと、気づく瞬間であり、防衛でつくりあげた自己像の期限切れである。
そしてたたみかけるように続く〈オー、オー、オー〉。これも原曲にないが、AメロBメロの繰り返しの奥に隠れていた「サビ」がようやく現れたと感じられた。「supernova」や「Butterfly」と同じく、感情が最も昂ぶるところに歌詞はない。言葉をはねとばす吠え声にこめられた、自分の卑小や空虚に向き合わされる恐怖と苦痛。でもそれは、本来のところへ戻ろうとする力の反作用でもある。見栄と理屈で塗りつぶす前に何を描いていたかを、嵐の中心へ進むようにして取り戻そうとする力。それが「サビ」として出現したのだった。
ここからの抑揚によって、最後の〈改めて〉が原点回帰としての響きを増した。
現実と名付けて見た妄想 その中で借り物競走
走り疲れたアンタと 改めて話がしたい
心から話してみたい
ここまでは、「レム」の見ている方向を自分自身として解釈してきた。言葉がああまで露骨に的を射るのは自分ごとだからだと思うし、今回のアレンジによって、自分ごとの側面が大きく前に出た。「レム」のおそろしい鋭利さは「一歩引いて見たら自分キツすぎ」を研ぎまくったものだったのかもしれないとわかった(※4)。
一方で、呼びかけの形が続くことからもわかるとおり、批難の射程には当然他者も含まれている。自己批判と他者批判が重なるところにある「レム」が、初めて〈アンタ〉と名指すのが最終部。〈借り物競走〉に必死だった自分への呼びかけであると同時に、ここまでの批難にはからずも射られてしまった者たちへの呼びかけでもある。
もうやめる。こんなことをしたいんじゃなかった。ただ思っていることを誰かに聴いてほしいし、聴かせてほしい。おたがい卑小なら卑小のままで話したい。〈アンタ〉もそうじゃないの?
ファイナル公演では、〈心から話してみたい〉の部分がとてもかすかに歌われた。歌うというよりほとんど声帯をつかわない囁きだった。嵐をくぐりぬけた先のささやかな欲求を、隣にいる人だけにそっとこぼすようなおずおずとした調子だった。
ここにもきっと寂しさがある。理屈にこだわって自己防衛をやっているうちは、形は向き合っていても、自分ばかり気にして相手を見ていない、もしくは相手がそうなっていて自分を見ていない。そこにいる他者と決して出会えない。直接ふれることができない。せっかく〈今目の前にいる〉のに。
「いま、ここ、あなた」を重んじる現在のバンプにとって、これはぜひとも掬い取っておくべき寂しさだったろう。こうして「レム」は今回の「待ち合わせ」の文脈に参入した。ライブでのアレンジが〈自己防衛〉〈理論武装〉を剥ぎとったぐちゃぐちゃの内面を露出したことで、そのさらに奥にあった目の前の他者への欲求は、静かな中心として浮き彫りになったのだった。
「いま、ここ、あなた」を強くまぶしく見つめ求めるまなざしの背後には、消し去れないむざんな嫌悪が影をひいている。「レム」が担ったのはその暗い部分だった。でもその暗さは、「いま、ここ、あなた」の大切さを限定しないし、損なわない。むしろ、その輝きを空疎にしないための錘になる。綺麗事だけじゃできないのはわかってる。もしかしたらこれからもできないかも。「それでも」話してみたい。直接さわりたい。〈今目の前にいる〉あなたに、同じような暗さがあったとしても、だから、準備はできている。
そういう顔で「レム」は聴き手の前に現れていたと思う。
さいごに(太陽)
この日のセトリに入っていた「太陽」も、やっぱり〈触ってくれよ〉といって他者とのふれあいを求めている。押し出すような声とそこまでのストーリーとで〈触ってくれよ〉の切実さは十分にわかるが、これは挫折する。はっきりと残酷に失敗する。
君のライトを壊してしまった 窓の無い部屋に来て欲しかった
それが過ちだと すぐに理解した
僕を探しに来てくれてた 光の向こうの君の姿が
永遠に見えなくなってしまった
それが見たかったんだと気付いた
触りたいではなく〈触ってくれ〉。閉じ切っていた彼にとって、誰かにそう求めることが精いっぱいの開示であり積極性だったことはわかる。でも、信じてもらっても〈なおさら疑う〉などと、自分の位置は堅持したままふれることの負担を相手にだけ負わせ、つまり自分の世界を受け入れるよう相手に強いることは、〈永遠に〉取り返せない〈過ち〉につながる。〈僕〉は〈君〉をひどく傷つけ損なってしまった。〈僕を探しに来てくれてた〉ときの姿は二度は見られず、〈僕〉はその喪失を忘れられず、ひとつの大切な機会を自ら潰した後悔を消すことができない。
暗く狭い自分だけの世界から最後に自分を踏み出させたのは、明るい方から引っ張ってくれた誰かの手の力ではない。引っ張ろうとしてくれた手を甘えから掴まなかった自分の、苦々しく刻まれた過ちだった。〈君〉の姿は見えなくなり、代わりに、〈君〉が外側からひらいてくれたドアと、そこから出て行く選択だけが残った。
出れたら最後 もう戻れはしない
「いま、ここ、あなた」はゼロの状態から求められたものではない。その大切さに気づくために、すでに大きな代償が支払われている。気づいてしまったら後には引けない。これもまた、「いま、ここ、あなた」の輝きに「太陽」が加えたひとつの陰影であり、積極的な担い方だった。
何かを求め続けるのは、それが得にくいもので、得ても続かないものだからだ。かんたんに手に入るなら持続的なテーマにはならない。
さっき、〈心から話してみたい〉の囁き声を「おずおずとした調子」と書いた。つまりわたしはそこに不安を感じ取っていた。〈改めて〉〈心から〉対話するのが、実際どれほど難しいか。その遠さを見据える不安を聴いていたのだった。これはわたし自身の問題意識のせいであり、曲自身の姿からは離れるので、さっきは書かなかったけど。
〈話してみたい〉と欲求すること・表明することはできても、行為として実現させることは別問題になる。態度のくせはなかなか直らないし、自省は重ねれば重ねるほどきつい。自分ががんばっても相手にその気がなければどうにもならない。とりわけ、「うわー嫌いだな」と思うようなやつ、許せないふるまいをするやつと、本当に話すことができるだろうか。自分がもう経験済みで「あれは絶対よくなかった、間違いだった」とわかりきっているふるまいを、目の前の人が再現している(ように見えてしまう)とき、その人を完全な他者と認めて、本気で話しかけることができるだろうか。
〈心から〉話すにはたぶん予想外の努力と試行錯誤を要する。走り疲れて〈妄想〉から降りたら全部解決、にはならない。そこから始まる本当に険しい道のりが、欲求を表明する声をあのように抑えさせ、あるいは絞り出させたのではないか。〈心から話してみたい〉とはもしかしたら、いまだ一度も実現されたことがなく、これからもできるかわからない、遠い遠い望みかもしれない。
ここからは音楽の外の話になる。〈心から話してみたい〉とこぼすまで、〈窓の無い部屋〉を出ていくまでをバンプは歌った。さらにライブでの表現によって、その先に「いま、ここ、あなた」、12月8日の夜に東京ドームにいたそれぞれの人を、迷いなく置いてくれもした。そこで「あなた」、〈アンタ〉と名指されてしまったわたしは、自分の前にある現実的な困難に、「それでも」「たとえそうだとしても」といえるかどうかを、いま考えている。その先の中心へのまなざしをやめずにいるにはどうするべきかを考えている。〈そこから伸びた時間の上を歩く〉〈全て越えて会いに行く〉とは、わたしはそういうことだと思っている。
【注】
※3 『orbital period』の理屈の面にわたしはいたく衝撃をうけたので、理屈と書いたのは悪い意味でないんだが、そもそも作詞をしている本人が、言葉より〈ラララ〉とかのほうが伝わると前から言っている。実際感情のピークに〈ラララ〉〈イェー〉〈ウォウウォウ〉系がくる曲は挙げればきりがないし、ライブで歌ったりするとその豊かさは実感される。こういうむきをもともともっていたバンプにとっては、言葉に頼った理屈がだんだん引っ込んでいくのも必然なのかもしれない。
※4 「レム」のことは最初に聴いたときから「2ちゃんねるの曲」と思っていた。つまり自分をはさまない他人へのまっすぐな批難として聴いていたのだが、2016年ごろ、ZIPかなにかでバンプがインタビューを受けたとき、「自分がもしバンドをやってなかったら今何をしていると思うか」との質問に、藤原の答えは「2ちゃんに誰かの悪口とか書いてるんじゃないすか」。たぶん身に覚えがあるんだろう。むしろ「人のふり見て」的に自分を振り返った結果の「レム」かもしれない。本当にバンドあってよかった〜
【謝辞】
この文章を書いている間、ヨシオテクニカさんとしたお話から、多くの示唆をいただいています。わたしに見えていなかった面を教えていただきました。ありがとうございました。
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