サマーパーティー
エルレの夏ライブに行きました。でっけー星がステージの上で燃えているみたいだった。エルレ好きになった頃からどうしてもライブで聴きたかったSliding doorを今回やってくれて、うれしかったし、うれしい以上にいろんなことをいっぺんに感じていて、よくわからないまま消えてしまうといやだから、その前に書き留めておく。
歌も演奏もめちゃくちゃうまくなっていた。ライブだとわたしはふつうに聴くときよりもその曲のシンプルな存在感を強く受け取ることが多く、技術的な面になにか感じることがあまりない(余裕がないし何か感じられるだけの知識もない)が、Sliding doorは「え、うま……」と思った。(復活ライブでのMiddle of nowhereもそうだったからよく覚えている)わたしは昔よりも今の細美の、息遣いのふかい圧のある声のほうが好きだし、とうぜん、曲のよさには演奏や歌のスキルの高さも大事な要素だった。気づくのが遅すぎる
で、技術力があがったときに、こんな言い方はへんかもしれないが、曲にかかってた靄みたいなものがとれた感じがした。いや、このいいかたは正確ではない、だってわたしはSliding doorの「剥き出しさ」が好きだったのだ。
Sliding doorは、なにか重要な鍵を見つけたのにそれが使えなくて、目の前で閉まっていく扉を見つめているその一瞬が、とても長く引き延ばされているのか、何度も繰り返されているのか、自分の求めているものが刻々と奪われ閉ざされて、取り残されていく無力感ともどかしさとが、液体の炎みたいな湿度と温度で歌われている曲である。世界は残酷というより自分に対して無関心で無造作であり、そのなかで必死に見つけた光明はかんたんに見えなくなってしまう。
原曲のやや自己陶酔的なかぼそい歌い方や、ドラマチックなサウンドは、その悲壮さやひりひりした孤独を前面化させていた。わたしはそこにつよく惹かれていた。
でも、声が変わり、アンサンブルにも変化があり、「サマーパーティー」と名前がついた夜、泣きたくなるようなぶっとい楽しさがびかびか燃えているライブの中に、ふと差し込まれたとき、この曲はぜんぜんちがう響きを持っていた。
何度歌われても歌詞は変わらない。鍵は役に立たないまま扉は閉ざされ続ける。けれどもそれを「歌う」ということは、何度も「歌う」ということは、世界の無関心さに何度もすがりつき、光を見出し続けていくということなのだ。ドアの向こうにあるものがどんなに世界にとって無意味でも、それにいやおうなく気づいてしまっても、鍵を見つけたら拾い上げずにいられないし、鍵穴にさしてみないではいられない。そのたびに失望するはめになっても、今度こそはという望みをいつまでも捨てられない。捨てられないことが繰り返されて捨ててなるかという意地へ、意志へいつしか変わる。
このライブはそういう意地がつれてきた空間だったのかもしれないと思った。捨ててこなかったことが蓄積した力によってたどり着いた空間なのかもしれないと。
そもそもしんから世界に絶望していたらおそらく歌は生まれないのだし、Sliding doorという曲もその意味で、歯を食いしばりながらの世界への呼びかけに他ならなかった。疑って、なくして、傷つくことは、はじめは受動的なできごとであるにせよ、それを自ら繰り返すなら、それ自体が外部へ自分を賭けるくらいの強い働きかけであったはずだ。失望と表裏にあるその意志の部分、逆説的な期待と信頼──自分で掘り起こさなければたちまち崩れてしまう信頼が、ちゃんと掘り起こされて、”DON’T TRUST ANYONE BUT US”から”The End of Yesterday”へエルレを連れていき、今、大きく広がって鳴っている。と思った。
Mountain Topを初めて聴いたとき、失ったところから始まりはしても、エルレはもう欠落にすべてを投げ込むバンドではないんだなと、奇妙な安心とさびしさをもって思ったのを覚えている。
何かを選ぶことはほかを選ばないことだ。エルレは再開して現役のバンドに戻った。わたしにとって、たぶん多くの聴き手にとってもうれしいばかりだったその選択さえ、ありえた他の道を捨てるという喪失を不可避的に背負っている。あのパーティーの背後には失われたものがおびただしくある。
失われたものからの呼び声を「聴いた」と、いまのエルレが歌い、表明することは、そういうものたちへの鎮魂であるのと同時に、より強く、そういうものたちの上に成立している現在と、これからも成立していくであろう未来へ向けられたまなざしの現れではないかと思う。選ぶことも、捨てることも、捨てられないことも、捨てられなさにしがみつくことも、結局は全部自分で選んだ道の上なのだ。これからも全部自分で選んでやる。それが、基本的には思い通りにならないこの世界のなかに、あの夜を実現させた力なのだろうし、だから、「ざまーみろ、おれはやったぜ」って言ってやることが、反対に世界に笑いかけてやる温かさをもつ。「お前はまだまだ捨てたもんじゃないよ」と。
わたしもそういうものがつくりたい。というか、自分のつくったものと、そういう関係を持てたらいい。これはライブの当時にでなく今書いていて思ったことだ。
Sliding doorはチケットがなくて行けなかったLost songs tourでもセトリに入っており、バカ羨ましかった記憶があるので、今回のライブでやってくれたのは単にそういう客がよろこぶという理由もあるのかもしれない。それならそれでいい。わたしにとっては、あのときの光景や鼓膜の震えが、もっというとあの一回のライブの体験が、記憶というよりも、ディテールはだんだん薄れていくけど、自分で言うのはへんな気もするが美学とか、そういうものになっていくような気がする。
わたしはわたしのことをしっかりやろうと思う。ほんとに行ってよかった。