私記3
きみの痛みがわたしのものでないことと、わたしがきみを好きだということは矛盾しないのだから、なにもかもが自分を邪魔しているように感じるときも、誰の味方でもなくてよく、誰にも味方にされなくてよくて、それでも遠い他人に想われている場所が自分で、どこへ行こうと「あのひと」といって思い浮かぶそのだれかにいちばん近い場所で、きみはあり、それはきみも誰かにとって、かけがえのない他人であることだと、知っていてほしい、それは、国家とかとはべつのところで、陣営をもんだいにしないところで、できれば、ほんとはなにも考えないでいられたらいちばんいいね、自分の好きなものを好きでいることだけに注力できたらほんとうにいい、もう毎日けっこうしっかり自分を責めていて、しにてーと口にするのが発作ではなく、ドラッグストアのあかるい棚にならぶ睡眠薬の瓶を想像するようなリアリティを持ち始めているとき、遺書を書き続けていたのも、自分ひとりが死ぬことを世界中の全員を殺すことに想像力の中で変換する作業であって、つまり生きるためだったのに、いまも生きてる老人の若いころの顔を見て、そのひとがもういないようなきがして、そしてもういないひとはまだ元気でいるようなさっかくがして、錯覚だと気づくのがいやで、またしにてーと口にする。死者のことを一生懸命かんがえてもすぐそばでしんどい人になんにも声をかけられないし、自分が死んだあとの始末もじぶんでできないのが恥ずかしいと思ってしまう、そんなのは当たり前のことだし、好きなひとがいて死にたくないことはもっと当たり前のことで、図書館が開いていなくてなにもできない春の日でもそれはじゅうぶんに幸せなことの、はずだ、わたしがだれかにつけた傷は消えないのに、しにてーというわたしの身体、言った瞬間に生きたがっている身体よ。