あなたも誰かに祈られている
いま、とはなんだろう。
「今」は細かくしていけば限りなくゼロに近い。未来と過去とのはざまでしかないものだ。しかし、過去はもうないし未来はいまだない中で、「今」だけが唯一あると言えそうなものでもある。この「いま」とはいったいなんだろう?
これからバンプオブチキン「Gravity」の話をするんだけど、さしあたりこの疑問が軸になる。というのも、時間軸が判然としない曲だからだ。いちおう物語ではあるけれど、時系列が混線しているというか。その複雑さがまた魅力であり、解釈に幅を生んでもいる。
うっかり抽象的な話になりそうだけれど、歌詞に沿って書いていくことにする。歌詞の引用は歌詞カードから(ようやくCDが出てとてもうれしい)。
先に「Gravity」について書かれたもので、読んだのは以下。
北虎あきら「とらわれる重力場/BUMP OF CHICKEN「Gravity」に寄せて」
kameri「在る重み(1):BUMP OF CHICKEN「Gravity」について」
kamari「在る重み(2):BUMP OF CHICKEN「Gravity」について」
北虎あきらさんのものは、歌詞ぜんたいを微に入り細を穿って徹底的に解釈していて、たいへん参考になる。kameriさんのものは、一曲を支点にしつつ、やわらかで自在な捉え方で、バンドの全体的なすがたを浮かび上がらせている。どれもとてもよいので、できれば先に読んでもらいたい。もちろん読まなくてもわかるようには書くつもり。わたしが付け加えることは残っていない感じがするが、ともかく書きたいことを書いていく。
「時計を見ないようにしていたけど」
「Gravity」は、ノスタルジーにみちた夕暮れの光景ではじまる。
帰ろうとしない帰り道 いつもどおり
視界の隅っこ ほとんど外 君が鼻をすすった
空を割る夕方のサイレン
給水塔の下 あれは蝙蝠
僕らは時計を見ないようにしていたけど
そんな風にして時間に気付いてしまうから
かき消すように喋ろうとして
なんだかやっぱり黙ってしまう
まず、引用した一連目をみると、短い言葉をテンポよく連ね、的確な遠近法で景色を広げている。これに対し、二連目は息の長い一文で、かすかで微妙な気持ちの揺れを映し出す。こういう歌詞のリズムのちがいは、自分の外部と内部とのリズムのずれでもある。淡々と進む時間と、それでもずるずる帰ろうとしない僕ら。この場面の機微はとてもリアルだ。
君の影の 君らしい揺れ方を
眺めているだけで 泣きそうになったよ
とても好きな部分。やさしいまなざしだと思う。
この曲においては、「今」と「君」とが強く結びついている。帰ろうとしないのは、「君」と離れるのを惜しみ、「今」をできるだけ長引かせたい心性だ。影の揺れ方まで「君らしい」と思うのは、「君」のことを「僕」がほんとうによく見ているからで、泣きそうになるのは、それほど親しい「君」と、「今」が終われば別れなければならないとわかるから。
「僕ら」が気づいた時間は、今日の日のお別れの時間でもあるし、互いにほんとうに離れてしまう時がくる、それまでの時間でもあるし、それぞれの刻む時が終わるまでの時間でもあるだろう。(kameri「在る重み(2)」)
そんなところへまで思いが及んでしまう瞬間が、「泣きそうになったよ」の一言には鮮烈に焼き付いているように思われる。ちょっと笑って、ごまかしながら、なんかいま泣きそうになったわ〜って。「同時に」くしゃみしちゃうのも、そういう「今」を意識させる、象徴的な場面だと思う。
いつの日か どっちかが遠くに行ったりして
会えなくなったりするのかな 今が嘘みたいに
じゃあまた会えた時 今みたいに
黙ったままで側にいられるのかな
いつかくる別れも、さらにその先の再会も、どれも「今」を基準にして想像される。「今」への恋着といっていいくらいの大切さが、ひるがえって、「今」の終わりを強く意識させている。こうして未来に向かった視線は、次に少し後ろへ反転される。
大人っぽく振る舞ったり 尖ってみせたり
刺さった時に誤魔化して 変な感じになったり
そういうの まとめて愛せるくらいに
僕らは僕らを信じられていた
「信じられていた」が過去形なのはやっぱり気になるところ。現在は信じられてないのかということではない。「今」のさなかではない、「今」のはずれから振り返って総括するような距離感も取ってる、ということだ。自分たちを「僕ら」として少し離れて見る視点が出てくるとき、ふたりの関係性のいとしさに気づくと同時に、もはや過去になっている「今」の姿が襲ってくる。切れ目なく続いてるように見えても「今」はどんどん終わっていくし、僕らの関係は有限だ。
「今」を、「君」を、大切に思えば思うほど、時間の流れは容赦ない。
「今を許してしまう」
「今」も「君」も続き得ないとわかったとき、「僕」はせきあげるようななにかを懸命に伝えようとする。
見つけた言葉いくつ 繋げたって遠ざかる
今一番伝えたい想いが 胸の中 声を上げる
そんなの全て飛び越えて 子供のまま笑って
裸足のメロディー歌うから いつも今を許してしまう
笑顔のまま ずるいよな
「伝えたい想い」の内実は歌われていない。隠されているのではなく、決められていない。いろいろ代入できるようになっている。重点は、「想い」の中身よりもその大きさにある。言葉を探せば探すほど適当なものが見つからない、大きな感情を「僕」は抱えている。「遠ざかる」のを感じる焦りは、「今」が続かないという気づきによって、増幅されているだろう。
「そんなの全て飛び越えて」いくのはだれか。大サビでは「僕ら」になっているから、その差を考えるとこっちは「君」だろうか。何も言えないでいる「僕」の逡巡を、「君」はすべて飛び越えて笑いかけてくれる。そんなふうに「僕」には見えている。
バンプのいう「メロディー」は、文字通りのそれも含みつつ、おそらくは、心の底から湧いてくる、また心に直接ふれることができる、言葉にならないものを総称していると思う。
言葉を当てはめたら 壊れるから
出てくるままのかたちで 伝わるから
分けられない思いの ひとつひとつが響いた
誰にも解らない 涙だけのための メロディー
(孤独の合唱)
遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ
一本のコーラを挟んで座った
好きなだけ喋って 好きなだけ黙って
曖昧なメロディー 一緒になぞった
(記念撮影)
言葉では共有できないものも、喋ることも黙ることも、不定形の空気のようなものまで、「メロディー」はみんな包みこめる。根源的で虚飾のない、存在のたしかさみたいなものに結びついてもいるだろう。
「僕」にとっての「君」は、まるで「メロディー」みたいに、心に直接笑いかけてくれるひとなのかもしれない。言葉をつなげてどうにかしようとしている自分迷いが、「そんなの」とひといきに括られてしまうくらいの、強力で率直な笑顔だ。そんなふうに笑いかけられるから、伝えられなくても通じ合えている気がしてしまう。とても深い信頼関係には違いないけれど、「僕」はそこに少しのわだかまりを持っている。
「メロディー」が他者のものとして出てくる歌詞はそういえばめずらしい。ここではそれだけ、自分の伝えられなさのほうに重きが置かれている。今伝えなくちゃと踏ん張れないで、流れ去ってゆく「今」を「許してしまう」。君に許されるから今を許してしまう。「君」のまぶしさ(への少しのひがみ。なんたって「メロディー」だもの)と、そんな「君」に甘えてしまう自分の情けなさが詰まった「ずるいよな」なのだろう。
「火傷みたいに」
では逆に「今を許さない」というばあいがあるとしたら、どんなふうだろう。今を逃してはいけない、と思う場合。
今日が明日 昨日になって 誰かが忘れたって
今君がここにいることを 僕は忘れないから
「今日」「明日」「昨日」という、止められない時間の流れをはっきりと認識しながらも、「今君がここにいる」事実へとかえってくる。時間に抗うことは、「時計を見ないようにする」のではなく、「忘れない」という決意表明になっているのだ。何がきっかけだったのだろう。
見えない涙拭って 謝るように笑って
触ったら消えてしまいそうな 細い指の冷たさが
火傷みたいに残っている
ここは最も主語があいまいなところだが、まず重視したいのは「火傷みたいに」という比喩。
傷とは、その傷がついた時点を、時間を超えて持続させてしまうものだ。つまり、傷がついた「今」の証として「残って」いくもの。
バンプは以前から、「傷」を生の証として大いに認めてきた。
何回転んだっていいさ 擦り剥いた傷をちゃんと見るんだ
真紅の血が輝いて 「君は生きてる」と教えてる
(ダイヤモンド)
一人だけの痛みに耐えて 壊れてもちゃんと立って
諦めた事 黄金の覚悟
今もどこかを飛ぶ あの憧れと
同じ色に 傷は輝く
(firefly)
「傷」は自らの存在をより確かなものにしてくれるということ。
次にあげる「アリア」は「Gravity」とよく似た情景をもつ。とくに「冷えた手が 離れた後も まだずっと熱い事」という一節は興味深いところだ。「傷」の歌われ方にも共通点がある。
曲がって落ちた紙飛行機 見つめ返せなかった まっすぐな瞳
夕焼けとサイレン 帰り道 もう痛まないけど 治らない傷
(アリア)
過去、だれかとの関係に少しだけはいった亀裂、その経験が、「もう痛まないけど治らない傷」として歌われている。
この後、「見つめ返せなかった」ことは、「忘れたくなかった」ことへ結ばれていく。そして最終部はこう。
あの日 君がいた あの日 君といた
何も言えなかった 忘れたくなかった
(アリア)
見つめ返せなかったこと、何も言えなかったことは、「君がいた」「君といた」ことを証明する、たいせつな傷になっている。他者と関わるうえでついた「傷」は、自分だけでなくその他者の存在を、さらに自分とその他者とが一緒にいた事実をも、確証してくれるのだ。
「Gravity」で、見えない涙を拭ったのは誰なのか、謝るように笑ったのは誰なのか、わからないが、「メロディー」のように通じ合えていた(ようだった)ふたりの関係に、「いつも」と違う何ごとかが生じたのはわかる。それが「火傷みたいに残っている」。この傷こそが「今君がここにいること」を証し、「僕は忘れないから」という決意を生んでいるのだと思う。
「せーので全て飛び越えて」
最後には別れがやってくる。
見つけた言葉いくつ 繋げたって遠ざかる
今一番伝えたい想いが 胸の中 声を上げる
せーので全て飛び越えて 僕らのまま笑って
裸足のメロディー歌うから そして一緒に手を振るんだよ
笑顔のまま またねって
一番のサビが反復されつつ、主語は「僕ら」になる。「君」ひとりが担っていたまぶしさの中に「僕」も踏みこんでゆくのだが、このとき、「今一番伝えたい想い」はどうなったのだろうか。十全に伝えられることはおそらくなかっただろう。けれども、放棄されたのではなくて、昇華されたのだと思う。「裸足のメロディー」を一緒に歌うことは、言葉ですべてを伝え合えるはずのない僕らが、伝えられなくても一緒にいるということの確認だ。一緒にいるという事実そのものを歌うこと。
〈そんなの全て飛び越えて〉は君が僕の逡巡を飛び越えているのだが、今回の〈せーので全て飛び越えて〉は、君と僕のいるイマココが失われるというルールそのもの、この世の仕組みそのものを指しているのではないか。だって、僕らでせーので飛び越えるものだから。ふたりともが飛び越えるもの、ふたりの足元にあるもの。(北虎あきら「とらわれる重力場」)
「今」は失われるけれど、それでも確かに一緒にいる。いずれなくなるけれど、今はまだいる。喪失にとらわれている身体で、喪失していない今を歌うこと。僕らの微弱な確かさを握って、未来にむかう。別れは一緒にいることの終わりではなくて、それさえ「一緒に」する行為なのだ。はじめに、「今」と「君」とが強く結びついていると書いたことは、こうして乗り越えられる。
「今」はすぐに失われるものだけれど、唯一手の届いている、たしかなものでもある。それを手放し、乗り越えることは、不確かさのなかへ飛び込んでいくことでもある。離れ離れでも「僕らのまま」でいようとする意志をもって、「またね」と約束をつくって、不透明な未来へ、僕と君とをひらいていくのだ。
ちなみ程度に、「伝えたい」とか「伝える」ということにふれておきたい。
「white note」は、曲が書けないことを主題とした歌だ。「叫びたいことがわかんない」といい、そこから徐々に、「心はずっと喋ってるのに」「ずっと諦めないのに」と、自らの表現欲に耳をすましてゆく。その結果が以下。
大声で叫びたい 誰かに聴いてもらいたい
いつでも それだけが確かなもの
何をいいたいのかではなく、「誰かに聴いてもらいたい」だけ。「これ以外僕にない」「それ以外特にない」とさわやかに言い切っておわる。伝える内容よりも、伝えるという行為そのものが自分にとって大切なのだと、発見される。
伝えることは相手ありきの行為だ。だから、伝える行為を意識することは、相手の存在を意識することになるし、伝えたさそのものに目を向けるなら、自分がいかに強く他者存在を必要としているかを、確認することになるだろう。
「今一番伝えたい想い」は、はじめからその中身でなく大きさに重点があった。それほど大きな伝えたさがあること、伝えたい相手がいること、伝えたい自分がいること。君がいること。僕がいること。僕らがいること。そういう根源性に昇華されたのかなとも思う。
どうしても伝えたい「僕」に寄り添って、もひとつ別の解釈をおいておこう。伝えられなかった、遂げられなかった想いは、「僕」の胸に残り続ける。後悔になってしまうかもしれない。けれどもそれは、僕が「忘れない」こと、「僕らのまま」でい続ける意志を支えてくれるだろうし、「またね」の先の再会を望む根拠にもなる。未完であることは推進力、持続力にかわることができるのだ。
思い、思われ
‘gravity‘の一般的な訳は「重力」だが、「引力」というのもある。わたしたちを地面に縛る重力と、同時に、万物が互いに引き合う引力。この多義性についてはkameriさんがていねいに論じている。
他者との間に引力がはたらくのは、互いが重みをもってそこに「在る」ときだ。わたしの存在についての制約であり、条件ともなっている身体、重みをもって在る身体というのが、他者との間に相互にはたらく力を存在せしめる条件となること。(kameri「在る重み(1)」)
制約があるからこそ、わたしたちは互いに引き合う。願いや、祈りは、重力に代表されるようなこの世界の摂理をも、越えていく。
私たちを地面の影へ引っ張って引っ張って離さないGravityを、君の明日を祈るちからで僕(ら)が飛び越えるための音楽。(北虎あきら)
「今」でない時、「ここ」でない場所に、わたしたちはいられないが、思い描くことはできる。「今」の中にいながら、忘れたくないものや忘れられないものを過去から引き継いでいるし、まだ来ない明日に不安を持ったり、希望をかけたりする。「ここ」にいない人を思い、寂しがったり、恋しがったり、無事を願ったりする。記憶や想像力は、そうして時空の隔たりを越えてゆく。この揚力は、「今、ここ」に囚われれば囚われるほど、切実さをまして強くなってゆくだろう。
雨でも晴れでも 空のない世界でも
また明日 明日が ちゃんと来ますように
一緒じゃなくても 一人だったとしても
また明日の中に 君がいますように
ここにいたって、「君」は「今」ではなく「明日」と結びつくようになる。一緒にいない君、まだこない明日。この身体が飛び越えることのできない距離があるからこそ、わたしたちは祈るのだし、そこには大切な調和があると思う。
この部分を耳をすまして聴くと、主旋律に1オクターブ低い声が重ねられている。「ラララ」のところもそう。「今、ここ」に立ちすくみながらはるか遠くを眼差している、この重力と引力との二重性と、また調和とを、音のつくりにも感じるところだ。
いや、もしかしたらこれは、僕と君とが、離れていても響き合いながら歌う、同じメロディーなのかもしれない。「僕」はひたすら「君」にむかって祈るけれど、もしかしたら「君」も、同じように祈っているのかもしれない。言葉にこそされないが、言葉にされないからこそ、「裸足のメロディー」だったはずだ。わたしたちは大切な人を祈り、また自分を大切に思う人から祈られている。一緒にいない「今」は、遠くから、互いの明日を祈りあっている今でもあるのだ。そうやって、不確かな未来への扉を、「せーの」でひらいてゆく。
余談(これを愛と呼びたい)
ここからはただの感想。長いから、読まなくてもいい。
MVを見たとき、目の前をまっすぐに指さして「君」と歌う藤原がいて、たいへん勝手ながらライブのステージで歌う彼と重ねてしまった。だから、その指の先に客席を、つまり自分をみてしまって、バンプの「君」がいつでも自分になりうることを思い出し、自分が祈られている場所だったと気づいて、恐ろしくなったのだった。
みんないつか消えるという不確かさをいやというほど歌ってきたバンドが「明日」を祈ることが、楽観や都合のいい期待であるはずがない。きっと晴れると言わない、雨でも、晴れでも、「空のない世界」なんて、もしかしたらすごい地獄かもしれない。それでもいてくれと言われている。一緒にいるからと言わない、「一緒じゃなくても」、どころか「一人だったとしても」と言う。絶望のふちのふちまで仮定して、それでも「いますように」と、絶対に落っこちないでくれと言われている。
存在の全肯定は、優しさや思いやりの形をときに突き抜ける。
「いるだけでいい」というささやかさは、裏返せば、「何があってもいることだけは絶対にやめるな」ということだ。無粋を覚悟で有り体に言ってしまうなら、死ぬのだけは絶対だめ、と。
MVの最後に、地面に落ちたカードを藤原がそっと拾い上げるシーンがある。カードの指す意味は「希望」らしい。あの最小限の動きは、ぼろぼろになっても消えてはくれない希望を掘り起こして確実にすくい上げてしまう、決定的な行為なのだ。絶望させてくれない。どこまでいってもついてくる最低限のラインに、この曲はいて、厳しく前向きであるしかないメッセージを突きつけてくる。
斜めな見方だと思う。でもわたしがバンプを聴く意味はそこにある。わたしが生きている「今日」は、この歌を聴いたその日から、「君がいますように」と昨日から祈られている「明日」になってしまった。昨日は変えられない。生きるしかなくなってしまう。「空のない世界でも」、「一人だったとしても」。
生きることは輝かしいばかりではないから、誰かに生きていてほしいと願うことは、その困難を他者に強要するエゴから逃れられない。その残酷をバンプだけが免れることもありえない。これを優しさと呼ぶことは、わたしにはできそうにない。
だから愛と呼ぼうと思う。そういうことにしたらわたしは生きていけそうだから。生きるのはたいへんだし難しいし死んだほうがずっとらくに違いないし、そう思う自分も否定しないけれど、「それはそれとして、とにかくいまはそれよりも」(北虎さん)、明日の中にいますようにと、自分が祈られているということは、信じて、忘れないでいようと思う。
わたしが「Gravity」から勝手に受け取ったのは、そういうことだ。