My Own Worst Enemy
佐々木敦『ニッポンの音楽』を読んでいたら、YMOについての章で
とあった。耳の痛い言及なんだが、けさこれについて風呂の中でぼんやり考えていて、「嫌われるのも存在を認められるということの一つの形なのか」と思いついた。
大多数の人がそうであるようにわたしは人に嫌われたくない。嫌いな人はいるが、その相手に冷たくされたら慌てるだろう。誰かに嫌われたと思うときはなんというか「その通りです」と思う。正当に嫌われているという感じがする。いや、そもそも、自分が誰かに嫌われていると思ったとき、その理由を過不足なく「正当である」と判断できる場合はあるのか。これは自分を振り返っていうのだが、おのれがこうだと信じたことを貫徹した結果「だから嫌われた」と表現する場合、そこに「衆愚」を見下す視線がないとは言い切れないし、逆に、自分が明らかに愚かな唾棄すべきふるまいをした結果「だから嫌われた」と表現する場合にも、自己嫌悪を反省のみぶりで誇示するような甘えが混じる。
「嫌い」は「好き」よりも、表明との関係が屈折している気がする。理由がなければ許されないという感覚が強いためだ。
人が人を好きになるのに理由がないように嫌うのにもたぶん理由はない。あってもいいけど、なくてはならないわけではない。感情を表明するかどうか、どのように表明するかという行為のレベルには思考が必要だが、感情に正当もへったくれもない。
話がそれたが、ようするに、「存在を認める」というのは、べつに好きであることが前提ではなくて、「好きだからこそ批判する」という話でもなくて、根本的には、他者になんらかの感情をいだく=関心が生まれることを、その方向がどうであれ無視したり歪曲したりしないということじゃないのかと思う。その人が生きてそこにあり、自分に何らかの影響を与えた事実をできるだけそのまま受けとめることだと。裏返せば、わたしが誰かに嫌われたときは、好かれたときと同じ強度で、自分の存在がここに証されている。本人にその気があろうとなかろうと。どんな理由で好かれてもいいし、どんな理由で嫌われてもよい。わたしはまたそれを喜んだり憤ったり何らかの反応をするだろう。その時点でわたしはその関係性を承認してしまっているわけだ。
これは「解釈違い」に対する「よそはよそ、うちはうち、心穏やかに」というスタンスへのアンチでもある。あれも尊重の仕方であることは間違いないんだが、せっかく芽生えかけた他者への関心(ネガティブなものであっても)を早々に断ち切ってしまうのは損である。だからって攻撃せよと言ってんじゃなく、違和感や怒りを自分の考えを深めるのに使えばいいじゃんてことだ。今は「共感」が蔓延しているので、非・共感の意見や感想をくれる人はとても貴重である。
タイトルのMy own worst enemyはハイエイタスの曲からとった。
訳は作詞者が自分で書いているが、enemyを「敵」とせず「反対者」としている。反対者は敵ではない。あらかじめ決まっているbeaterやcheaterが筋書き通りに自分を傷つけていく、書き割りのむなしさに飲み込まれそうな状況で、worst enemy(最強の反対者)を自ら呼び起こし、自己定位を試みようとしている。その位置は新しい位置というよりも、もともと知っていたはずの、今は見失っている、本来的な位置(=home)である。反対者は、そうであるがゆえに、じき自分のもとを去ることが予感されているが、その存在があってこそ、自分は自分のあるべき位置を見定めることができるのだ。
この「最強の反対者」は、「心の保管庫」の奥の「迷宮」の深みの「棺」にいる。自分の中でとうに葬ったはずの場所から、「反対者」を呼び起こすとき、それは「救い主」になる。あるいはこうも言える。「救い主」をなによりも自分の奥深くに求めたとき、それは葬ったはずの「反対者」だったと気づくのだ。
自分が相手とは違うという恐怖、自分が間違っているかもしれない恐怖、間違っていることで相手から嫌われるかもしれない恐怖。そういうものに、できれば心を乱されることなく過ごしたい。平穏に生きていたい。けれども自分の個(個性ではなく)を何より確かなものにするのがその恐怖である。なぜならそれは、自分が他の誰とも違うものとして生きており、かつ、自分とは違う誰かと「違う」という反応を送りあうことで関係を創造できることの、証左であるからだ。そして、反対者を「救い主」として認識するのは自分自身である。「まるでそれしかないかのよう」な平坦な道の外側へ自らを開いていく、その外部はほかでもない自己の内部に兆している。