美術館を出たあとの地面
内藤礼展「生まれておいで 生きておいで」を見たあとのメモ。
てざわりが重要と思う。てざわりが重要。美術作品は基本的にどこでもさわるのを禁じられているのがオーラの偽装って感じで邪魔くさいと思っていたしいまでも思っているが、「見えるけどさわれない、さわれないけどとても近くで見える」ということが生み出す感触がある、制限(さわらせない)を逆手にとるというか。毛糸でできた球や白い風船がまうえから吊り下げられているそのすごいささやかな重力とか、つりあいとか、人の動く空気の流れが糸をゆらしてそのゆれがつくる気配とか、さわれないけど毛糸のことや風船のことを、わたしは知っているから、見れば手ざわりがわかる。視覚に手ざわりがやってくる。それはわたしがそういう経験をもっているからで、そういう視覚と触覚をもってこれまで生きてきたということ。さわれないけど、誰かが息をしたり歩いたりすることから生まれる風があって、それを受け止めることを自身の動きとしているものがあって、わたしの風に呼応したものも何万何億の動きの中にひとつやふたつはあっただろうということで、そいつの手ざわりもひょっとしたらわたしは知っているのかもしれない。
雪の印象を強くもつ。石やガラスや鏡やの下に敷かれた白い厚ぼったい織地や画用紙の目や。雪は、その上に動物の生死(あしあと、血)の痕跡をのこす底面でありながら、それをかき消す時限装置でもあって、その奥から別の新しい生命を萌え出させる奥行きをもった表面でもある、朔太郎の「つみとがのしるし天にあらはれ、ふりつむ雪のうへにあらはれ」を連想する。
下から見上げる雨滴。の静止した像。静物。両目では距離と角度を捉えられない。片目をつぶって初めてぶれない角度がわかる、でもそれを、正確さというよりは、一時的なとどまりのとりあえずの形のようにみている。雨だと思って近づいたらなにかの骨で、骨は透明でない糸が支えている。雨だと思って近づいたらなにかの骨だった、そんなことはふつうおこらない。おこらないこととの距離の先に立って後ろを振り返る気分が断崖に似ている。骨は頭にぶつからなかった。
上からぶら下がっているものを見るには頭を上へ向けなければならない。とても小さくて動かない生き物の顔をみるためには、かがんで覗きこまなければならない。みんなそうしていた。自分に何かしてくれるわけじゃない、とても小さくて動かない生きものがどんな顔をしているのか、知るために、みんな立ち止まって、表情を抑制して、目をちゃんと開いて、座り込んで頭を低く下げて、横から覗きこむ。なんだ、できるんじゃん。とその場面を見ていて思った。わけのわからないものをわかりたい、知らないものを知りたいという単純な欲求を、そんなにあっさりすなおに体に伝えられるんじゃん。泳がない、媚びない、撃たない、計らない視線で、まったくべつの生き物の顔を覗きこむのが、できるんじゃんみんな。
ここでできるなら街中でもできる。くつを脱いで座ったり顔を雨に打たせたりできる。踏みつぶしそうな小さい生きものの顔を、膝をついて慎重にのぞいて、あらかじめこちらを見ているかもしれず見ていないかもしれない目を、言い訳や常套句の手前にある矢印だけに体を預けて自分の意志で覗きこむことが、ここでできるならいつもの暮らしでもできるはずだ。