わかんないってさみしいよね
ヤーレンズのラジオ「ラジオの虎」を聴いてたら出井さんが韓国語のことをそう言っていた。「隣の国の言葉なのに」と。「勉強してみようかな」とも。同じような動機でいま韓国語を勉強しているのでちょっとびっくりしたというか、びっくりしたのはシンクロしたことにじゃなく、わかんないことをさみしいと感じる、わかんないときの感情をさみしいという言葉でいっていいということを、いつからかわかんないことは当たり前だと思ってきたし今も思ってるから、でも、わかんないのって、そうだよねさみしいよね、そうだった、と思い出した。「同じような動機で」と書いたけどわたしの動機は、「隣の国の言葉がわかんないのってまずいな」という、つまり「必要なことをやっていない」という義務的な感覚だった。誰かに言われたわけじゃないし、日本に住んでて韓国語がわかる人がどのくらいいるのかも知らないけど、そして直接のきっかけは同居人がBTSのファンでつられていろいろ見たり聴いたりするようになったからだけど、基本的に人のことはわかんなくて当たり前で、だから理解しようとする必要がある、という二段階の考えをわたしはもっていて、でもそもそも、その一つ前に、わかんないのはさみしい、というのが、あった、最初からあったわけじゃないかもしれない、でも「そうだった」「思い出した」と感じた。
渇望。忘れかけている。「したい」より「すべき」に従って行動することが多くなった。実際の割合はそんなに変わってないとしても感覚としてはそうで、その二つの境目がどこにあるかも正直よくわからない。でも、覚えている事実としては、仕事をしていたとき、たとえば「この時間に移動してこの業務やっといたら効率がいいな」てのを上司や同僚に相談するさいに、「ここで移動したいです」と言いそうになるのをわざわざ抑えて、「ここで移動したら効率がいいですよね」と言い換えていた。「〇〇したい」という欲望の言い方を仕事では注意して使わないようにしていた。業務上必要があってすることと、わたしが心から「したい」と思っていることは別だから。外からくる必要に欲が侵食されるのがいやだった、自分のきたない欲望が整頓されるのを嫌った。欲望は粘着質で不透明で、請われて明かすものではない。
ハイエイタスが今やっているツアーのチケットが当たらなかったのがくやしくて納得がいかなくて、当日になっても諦めがつかず、いてもたってもいられなくて開場時間にボトムラインに行った。最寄りより少し離れた駅で電車を降りて、線路沿いの夜道を大股で歩きながら、対岸にそびえるマンションの明かりを見ていた、見ていたというより景色が襲ってくるなかにわざと飛び込んでいくようなむちゃくちゃな気持ちでふと横を向いてそのでっかいマンションの明かりが見えた、とき、すごく孤独だった。そのときの自分の足音がまだ続いている。わたしはそういうのがほしかった。好きな人に会いに行くならたった一人で行きたかったのだ。考えることは、思考は、いつも円状の拡がりの中に自分以外の誰かを立たせて必要のあることばかりを言わせる。望んでそうしたけど望まなかったこともある。欲望が泥になって円を覆い隠すのが一瞬の錯覚でも、わたしの足跡がたしかにある。音楽はわたしにとって差異だった。重なっても重なっても必ずいつかは引き剥がされた。わたしがむける欲望に音楽はそうやって応えてくれてきたと思う。だからわたしはたった一人になることができた。たった一人で何かを好きになる、好きでいるということができた。欲望を絶対のまま燃やすことができた。勇敢になれた。渇望。わたしにとっての渇望は孤独の形をしていた。
一丁前に人の目を気にし出す前に「人の目を気にするな」というメッセージを各所から繰り返し浴びせられたから人の目を気にすることが本当にどういうことなのかいまだにわかってないのを後悔している。人が本当はどう思ってるかなんて知る由もない。その前に知りたいと思いたかった。知りたかったじゃなくて知りたいと思いたかった。わかんないってさみしい。わかりたい。わかりたいこととわからないことをほかの誰かにみんなしゃべってしまう前に、そんなので満たされた気になる前に、たった一人で好きな人に会いに行きたい。会ったあとのことなんか一つも考えずに。