私記16(自分の犯していない罪に対する責任について)
書きたいことは山ほどあって、そのために読みたい本や調べたいこともたくさんあるのに、そっちはいっこうはかどらないでしょうもない小文だけがすらすら出てくる。このエネルギーのしくみをうまく利用できたら万事において効率があがるんだろうがわたしはそんなに器用ではないし自律もできない。
言葉とは、同胞に対する、すなわち自分の犯していない罪に対する、責任なのである。
ということをフランスの思想家レヴィナスが言っていた。どういう文脈の言葉であったか忘れてしまったがこの一節だけよくおぼえている。大学生のときにはとても観念的な、形而上的な意味でとらえていたが、就職すなわち会社という組織の一員になってからは身にしみて思い出すことが多くなった。
電話を取るとちょくちょくクレームが入る。電話を取ったので対応する。まだ入ったばかりの会社で重大な仕事を任されないので、だいたいのクレームはまったく身に覚えがない。身に覚えがなくても申し訳ありませんと言う。一ミリも知らない内容でちんぷんかんぷんでも、すみませんと言って頭をさげる。自分でも本当か?と思うけどがまんして謝っているとかではなくて、本当にすみませんと思う。反射的にハ?知らねえよとなるのは個人としてのわたしで、不快にさせて申し訳ないと思うのは組織の構成員としてのわたしで、優劣があるわけではなく、ただ、相手は構成員としてのわたししか知らないし、こちらも構成員としての自分しか相手に見せないというだけだ。わたしの犯した「罪」の責任も、知ると知らぬとに関わらず、わたしではない誰かが負ってくれていることが間違いなく多々ある。たぶん自力が今よりもっと弱かった幼児のころからそうなっている。
こうしてたがいに責任を負いあうしくみが正しいのか間違っているのか、健全か否かの話じゃなく、ただ、そうなっているのがわかってきた。人によっては今さらもいいところの話だろうけど、わたしは自分をゴリゴリに傲慢な人間だと思っていたので「身に覚えのないことでも心から謝れる」という経験をほとんど初めてしてびびっちゃったのだった。
同じ人間は一人もいないのに、共通項としての言葉があるせいで、見も知らぬ他人の痛みを自分の中に見出し、怒りは伝染し、よろこびも共有される。その作用と根本はおなじことだと考えている。だから知らねえよと憤慨する同じ心でしんからすみませんと言う。どっちの自分もべつにきらいではない。