「生まれた全ての力で輝け」という厳しさについて
3月に音楽文に投稿したものの再掲。
***
バンプが聴けない。
いや、聴いてるのだけど、けっこうしんどい。バンプがしんどいときは、自分があまりがんばれていないときだと、経験から知っている。
バンプのことに徹して書こうと思っていたのにまた自分のことを書いてしまった。でも、考えてみると、わたしでなくても、バンプのことを書いた文には自分のことを合わせて語っているものが多いような気がする。なぜだろう。バンプが、聴き手のことを照らし出さずにいない理由はなんだろうか。
そもそもわたしはなんでバンプを好きになったのだったか。
バンプの歌との出会いは、なんといえばいいのか、「なんで知ってるんですか?」という驚きだった。聴き始めて何年もたつ今でも、何度聴いたかわからない曲に、初めて聴いたような感慨を抱くことがある。わたしのなかのもんやりしたものを目にみえるようにしてくれたのは違いないが、名前をつけてくれたというのとはちょっと違う。むしろ、名前のつかないものがあることを、「知ってるよ」と認めてくれたのだったとおもう。いいとか悪いとかの判断より前に、存在しているだけのことを認め、何も言えずにいること自体をわかってくれているような感じ。もんやりしたものは、もんやりしたまま、分解されることなく守られて。それで別格に好きになってしまった。
彼らの音楽は、与えるのではなく、思い出させる。聴き手のなかで触媒のようにはたらいて、もとからそこにあったものが、あったのだ、と伝える。「そうか」「そうだよな」「そうだったよな」という、懐かしい新鮮さ。自分の中にこんなに美しい地層があったのかと気づく。それは聴き手が、「バンプを聴かなくても」存在し、持続しうる力を、自分自身のなかに見つけることだ。だからバンプの音楽は希望だといえるのだけれど、これは同時に、ちょっと類をみないような厳しさでもある。自分自身の力に気づくことは、すべて自分の力でやっていかねばならないのを受け入れることになるからだ。
私的な話になるが、大事な試験の勉強をがんばっていたあいだは、バンプの曲はとても心強かった。とくに「GO」はよく聴いた。「思いをひとりにしないように」「選ばれなくても選んだ未来」という歌詞がなんども奮い立たせてくれた。大事なものを選択しながら今まで生きてきた自分を信頼する、というメッセージを、そのときのわたしは切実に受け取っていたとおもう。
その同じ曲に、今はウッとなってしまう。目標を見失っている感があるからだろうか。自分の「思い」についていけていない怠慢を明るみに出されてしまうのだ。「自分で選んだんだから間違いじゃないよ」という励ましは、「自分で選んだのに何やってるんだ」という叱咤になって、耳に痛く響いてくる。
よく言われているバンプの肯定の姿勢は、甘さや許しではなく正確さに基づく。はっと目をひらかれるような清新な感覚はそこから来るのだろう。一見険しく否定的なもの、たとえば「レム」「イノセント」「キャラバン」なども、倫理とか感情ではなく、客観性につらぬかれている。バンプを、やさしくやわらかなものとして考えようとすると、反面にかならずその硬質な鋭さが立ち上がってくるが、これらの曲を異質だとか、二面的だとは思わない。甘えや逃げを暴力的なぐらい的確に削ぎ落としていったあと、「走り疲れたアンタと 改めて話がしたい 心から話してみたい(レム)」と、また「君がどんな人でもいい 感情と心臓があるなら(イノセント)」と歌う。これを、厳しさと呼ぼうか、優しさと呼ぶべきか。バンプの優しさは厳しさによって成り立っている、ということだろうか。そうではない。優しさと厳しさとは、同じものの両面なのだ。
たとえば「無くした後に残された 愛しい空っぽ(HAPPY)」と歌っていたように、あるいは「なくした事をなくさないように(トーチ)」と歌っていたように、バンプは「ない」「ある」の二元論をつきつめて「ないことがある」と一元化するところまで達していた。あることとないこと、優しさと厳しさ、そういう二元的なものは、実はひとつなのだ。
だから、聴き手の状況によっていかようにも受けとれる幅を、バンプの曲はもっているのだろう。突き放すようで、いちばんそばにいる。正確無比が無機質に傾かずに、どうしてこれほど均衡を保っていられるのか。考えていて思い当たったのは、音楽の無力、のことである。
はじめに、「与えるのではなく、思い出させる」と書いた。それは、聴き手を物理的に助けることが、音楽にはできないからだ。衣食住に入れられない、形すらない音楽は、ともすれば不要だという本質から逃れられない。
震災があって半月後、あるラジオ番組に出ていた藤原は、「こんなとき音楽は本当に役に立たない」と、はっきり言った。ひとの生活が壊され、生命が脅かされる状況に対して、音楽が直接には力になれないことを、まずただしく認識した発言だった。それでも、音楽に励まされていたひとは何人もいることを知って、彼は「ガラスのブルース」を歌った。ラジオで弾き語りでという裸のかたちで、当時にしても十年以上前の曲を。
「分けられない痛みを抱いて 過去にできない記憶を抱いて
でも心はなくならないで 君は今を生きてる
ちゃんと生きてるよ」
「だから僕は唄を歌うよ」「僕は今を叫ぶよ」の部分をこんなふうに変えて、藤原は「役に立たない」音楽を歌った。
「分けられない痛み」。音楽の無力は、人間の、他者に対する本質的な無力にも結ばれている。違う生きものである以上、他人の痛みを背負うことはできず、本当に「わかりあう」ことは不可能だ。同じ経験をしたように見えても、どんな基準をつくったとしても、人の数だけの痛みがある。一括りにすることも、分け合うことも、決してできない。
思えばバンプは、このような「分けられなさ」、ひとの根源的な孤独というものを絶えず見つめてきた。
メジャーデビューシングル「ダイヤモンド」(2000年)のカップリングに、「ラフ・メイカー」という物語仕立ての曲がある。泣いている主人公のところへ「ラフ・メイカー」はやってきて、突っぱねられて自分まで泣き出しながらも必死に笑わせようとするのだが、この主人公が最後に笑うのは、鏡に映った自分の泣き顔を見たときだ。他者の手助けはあったとしても、自分を最終的にすくい上げてやれるのは自分しかいない。「プレゼント」(2008年)では、自分自身を「ちゃんと見てあげる」ことを、「逃げられない事」「誰にも頼めない事」と認めていたはずだ。「分かち合えない心の奥 そこにしか自分はいない」と簡潔に歌ったのは「beautiful glider」(2010年)だった。そしてラジオでの「ガラスのブルース」は、「分けられない痛み」を歌い、同時に「ちゃんと生きてる」と歌った。「分けられない痛み」が、なくならなかった心の、すなわち持続するいのちの証明としてあることを伝えようとしていた。あのあと世に出た「Smile」は、震災をきっかけに作られたものではあるが、このながい洞察が結晶した作品だったとおもう。
「心の場所を忘れた時は 鏡の中に探しにいくよ
ああ ああ
映った人に尋ねるよ」
「大事な人が大事だった事 言いたかった事 言えなかった事
ああ ああ
映った人と一緒にいるよ」
ここに「僕ら」はいない。「わかるよ」と言わない。ここで見つめられているのは、ひとりの人がただ「ある」という動かない事実だ。鏡を見ている人と、鏡に映った人がおり、そこには誰でも代入されえるけれど、誰を代入してもそれはひとりだ。寄り添うふるまいはこの歌にない。あるとすれば、自分が自分に寄り添っている、その描写だけだ。「心の場所」を持っているのも、自分を守ってきたのも、失ったもののことを覚えているのも、何があろうと味方でいてくれるのも、自分自身だということ。
人間の本質としての孤独を正確な眼で見つめてきたバンプが、震災を経て「Smile」に結晶させたものは、他者と決してわかりあえない孤独こそが、ほかの何よりも強く自らを生かす力である、ということではなかったか。
震災から九年が経つ今、振り返ってこう書いているけれど、当時のことを思い出すと恥ずかしくなる。がんばればわかると思っていたし、それがやさしさだと思っていたゆえに、安易な物言いをしてしまったこともある。わかりようがないことを、わかっていなかった。自分が本当はべつに傷ついていないという後ろめたさもあったかもしれない。「Smile」という曲だって、震災への強い意識のもとに作られたことは間違いないが、そのためだけにあるものでは決してなかった。この曲は今でも、「わかったふり」への苦い自省をともなわずには聴かれない。
しかしながら、この曲がもうひとつ教えてくれたのは、それでもなお、表現をおこなうことの意味だった。音楽は役に立たないといいながら歌われた「ガラスのブルース」に確かな力が宿っていたように、他者を本当にわかることなどないという無力が、他者をより誠実に見つめるまなざしとなり、自己と他者とを普遍的につないでいる基盤にまでたどり着いた。そしてこの曲はCDになり、CMを通じて全国に流れ、大勢のひとに聴かれた。その営みには、ひとつひとつが孤独な存在どうしが、そのままで互いに響きあうことへの、静かな祈りがあったはずだ。
わたしは、出会ったころから、「知ってるよ」という穏やかな表情をバンプに見ていた。それはじっさい限りなく能動的な姿勢だったのだ。決してわかりあえないことをわかる。他者には知りえないみずからと、自分には知りえない他者のことを知る。だからこそふれあおうと願うのだ。そうして、孤独と無力の上にこそ共感を打ち立ててゆこうとする、強靭な意志の表情が、バンプにはある。
「生まれた全ての力で輝け」
「流れ星の正体」(2019年)のこの一節は、音楽へのあらんかぎりの信頼をこめた言葉だ。けれどもわたしは、自分の胸をまっすぐ指さされる思いがする。かれらの曲がわたしの空にとどくとき、その光に照らされるに足る自分であれるだろうか。無力で孤独な自分であるからこその輝きを、みずから信じてやれるだろうか。
バンプがわたしに厳しいとき、だからそれは、わたしにしかわからない大切なものを、見つめなおす時間なのだとおもう。バンプが抱きしめようとする聴き手の現在、聴き手自身の生命の証として過去も未来も同時にふくんだ現在のなかに、わたしにしかわからないわたしが立ち現れる。それに対峙するのはものすごくこわい。けれどそれ以上に、得がたく、美しいことと、今のわたしには思われる。