見出し画像

お前に会いに行く

 バンプのライブいった、大阪。めーちゃ楽しかったのと、去年のツアーあたりからぼんやりおもっていたことがはっきりしたから、書く。ちょっとだけセトリにふれてるからまだ行ってないひとは終わってから読んだほうがいいかも。あー。「あー」の微分でしかないんだけど。でしかないっていうか逆に「あー」にこめるしかなかったやつをいま一個ずつ確かめてる。

 ひとから「会いたい」「会いたかった」って、切羽詰まって真剣に言われることあんまないので、ライブでそれを浴びせられると、すごくとくべつに思われている感じがするし、そう言ってくれる本人をとくべつに鋭敏で深い人間に思ったりもするが、そうじゃなく、ほんとは、本来は、「本来は」とかもあんまり言いたくないんだけどだっていろんな種類の出会いがあるから、でも、つねに切羽詰まった、のっぴきならない、深刻な、今じゃなきゃだめおまえじゃなきゃだめ、そういう事案のはずなのだ。ひとがひとに会いにいくということは。自分の意識に関係なく。刻々と形を変える「いま」のなかにしかいられず、一個しかない体を逐次一箇所にしか置くことができずに、生きるなら。

 曲からも、インタビューなんかを読んでも、「聴いてくれる人」への矢印がどんどん強くなってるな〜ということを感じはしても、自分もその一人だという実感はあまりなく(たぶん自分の分析癖もあって)、それぞれの曲の細部が自分の生活やこれまでを振り返るときにふと隣へ降りてくることは今まで通りあるにしても、「聴いてくれる人」への思いの強さにかんしては、正直、そうだね前から言ってるもんね、ライブもいっぱいやってるし最近は特にそうなんだね、というぐらいの気持ちで聴いており、でも、ライブに行って、古い曲も新しい曲も居並ぶその正面にいて、いろんなことを力のこもった声でじかに言われて、そういやこのツアーのタイトルって待ち合わせだったと思って。
 それで。

 自我の形を不器用に手探りしていた思春期にバンプを聴き始めたから、人格がのびたり歪んだり失敗したり修復したり、いろんな変化をこうむって揺動しながらここまできた自分の履歴と、バンプが、切っても切れなくて、どの曲にも過去の景色や匂いがまつわっているし、同時に、聴くたびその背景を越え出て新しい厚みが加わる、生活の波形に沿ったりぶつかったりして少しずつ変形しながら一緒に先へ進んでいく、それはわたしにとっては当然のことというか、外出るときに靴を履くくらいの、改めて意識することもほとんどない常識だったが、自分が作る側に回ってみると、こんなことってない。こんなにものすごいことはない。顔も名前も知らない人の生活の中に、自分のつくったものが当然のようにおいてあって、その人が、ときどきそれにふれて、ほろっと泣いたり、明日もがんばろーとか、何年前はこういうふうに聴いたけど今聴くとちがうなあ、あのとき自分はこうだったけど今はこうなったんだよなとか、思ったりしている、それって、本当に本当に、意味わかんないぐらいの、この世の何もかもをかき集めてその人にあげても足りないぐらいありがたいことだ。

 作り手と、ひとくちにいっても千差万別だが、自分が作り手になってみておもうのは、いいとかよくないとかわかるとかわからないとか評価はさまざまで誤解されたり利用されたりもあるけど、もっと手前で、自分の作ったものを他の人が受け取ってくれること、つまり無視しない、「作ったんだ」と言ってのぞいてみてくれる、それだけでも相当な、大変なできごとなのに、どころか好きになってくれて、生活のなかに置いておいてくれて、あまつさえ「作ってくれてありがとう」なんて言ってくれたりする、マジでマジでマジでありえない、そんなの起こるほうがおかしいくらいありがたいことだ。別にわたしがどんなにがんばって何をつくろうが結局それはわたしだけの問題なので、興味をもたれないのがふつうなのに、それを、自分に関係があることだとおもい、少なくともそのへんの糸くずみたいな目にも入らないものではないとおもい、自分の抜き差しならない暮らしの中に小さな位置を与えてくれた、自分のことで忙しいのにそん中にねじこんでくれた。ありえないだろ。ありえない。でもそうしてくれた人はいた。そうしてくれる人がいる。ありがとう以上の言葉がない。
 こんなんやってて意味あるんだろうかとかちらっと考えて手が止まることがある。止めてもしょうがないとわかってても止まってしまう。寝てる時間に寝れないで深く悩んでしまったり、その疑いがときに自分の全人格を覆ってもうわたしなど……になったりしたとき、そういう人のくれた言葉を、思い出すことで、とり返しつかず崩れるのを防げるときがある。もらった言葉が、もらったときから体のどこかに留まっているおかげで、解毒できない冷たいものが自分の中に溜まってやがて丸ごと石になる道を、避けられていると、思うことがある。あなたのおかげで生きてるなんていう、陳腐な言い尽くされた嘘くさい言葉が、そういうとき本当になる。本気でそう言いたくなる。
 だから、その人が、怖い目にあったり理不尽に苦しめられることがありませんようにと思うし、つらいことがあるなら力になりてーとか思う。死なないでって思う。もし死ぬのが正解に思えてもおれを生かしたんだから一緒に生きててくれなきゃ嫌だと思う。
 ある見方からは不健全な繋がりかたなのかもしれないが、でもそう思っている。受け取ってくれる人がいること、その人が生きていること自体が、命綱とか、つくり続ける理由になっていくのも、必然じゃないけど、だからすごくわかる。

「そばにいて」とか「消えないで」とか「抱きしめて」とか、「必ずもう一度会える」とか。「離れない」とか「離れたくない」とか「二度ともう忘れない」とか「死ぬまで」とか「だから私は生きている」とか、詞になるには直接的すぎて甘いくらいの、歌い古されたくらいの言葉が、そういう言葉が選ばれなきゃいけなかった理由が、今はちょっとわかる。わかると思う。バンプの、いまここの恐ろしい不確かさとか、明日が来るのが怖いとか、でも聴いてくれる人がいるから続けてられるとか、「あなたのためとはいえないけどあなた一人が聴いてくれたらもうそれで」というのを、もう十何年?聴いてきてるせいで、その間に自分も作り手になっちゃったせいで、ただ楽しいとか衝動まかせでしか出てこないものがあるのと同じくらい、「お前」と指をさして、その人の命にむかうことでしか、放たれていかないものもあることが、わかる。そこにどれだけ大きな思いをかけられるかがわかる。その人が会いにきてくれたら、それこそ天体が動くぐらいの、天体どうしが出会うくらいの、遠大な軌跡とエネルギーを、いま向かい合っているという事実のなかに見出してしまう気持ちも、たぶん、わかる。今は。

 去年のツアータイトルbe thereを今のわたしはそのまま命令形として受け取っている。「そこ」はそれぞれの「ここ」のことだ。そこにいて。落ちないで。手放さないで。わかりました。あのときはわかりましたって思ってなかったけど思ってなかっただけでわかってた、だから待ち合わせに間に合った。わたしはこれからもここにいる。自分の軌道をちゃんと守る。それでまたお前に会いに行く。必ず行く!

ピクスモブ部屋でまだ光っている

いいなと思ったら応援しよう!

nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います