野暮について、あるいは自分への啖呵
日曜が月曜にかわる夜中にやっているバンプオブチキンのラジオがすきで毎週きいている。たいがいとりとめない話をしているが、こないだボーカルがちょっとくることを言っていた。「曲の意味」についてだった。「なんかそんな気がするってところがたぶん大事なところ」「言語化できるのはたぶんもっと表層のところ」。めっちゃわかる。その通りだ。言葉にならない部分への/からの働きかけが音楽だとよく知っているし、なんでもかでも言葉にしてしまうのは野暮だ。
じゃあなぜわたしは音楽のことを、こんなにしつこく書き続けているんだろうか。
正確にいうと音楽のことというより音楽をきいて思ったことを言語化している。その歌詞を書いたのはわたしではないのに、そこに浮かんでくる気持ちを昔から知っている、という現象、なんと名付けたらいいかわからないが何度もある。本でも詩でも絵でも。そういう気持ちをくれるアーティストばかりをすきになってきた。「うれしい」「かなしい」と同じようにたとえば「バンプを聴いたときの気持ち」がある。そうとしかいえない。そうとしかいえないことに幸福と、同時に危機感をおぼえている。これは、「わかる」「共感する」という安直な表明への嫌悪と通じる。
わたしはおそらく、曲をきいておもったことを文章にすることで、その曲たちに寄りかかるのを防いでいる。自分の感性を曲たちにまるごと背負わせてしまうのではなく、わたしとその曲とがむすぶ唯一の関係を知りたい、依存するんじゃなく対等に関わり合いたい。助けてもらったり支えてもらったりすることとはべつで、くれるものを受け取るだけじゃなくて、受けとめかたを積極的にかんがえたい。「わかる」「共感する」とおもったその内実をながながと書いているのは、「わかる」「共感する」という言葉だけでは絶対に落ちてしまうものがあるからだ。だって全然違う人間の表現なのだから、すこしの隙もなく一致することはありえない。そのちいさなずれに「わたし」がいる。それを見つけるために、一致している部分を書いて可視化する。できるだけ正確に、丹精込めてやっていると、ずれている(言葉にならない)と思っていた部分が、たんに自分の表現力不足でずれているだけだったりするのがわかってきて、同時に本質的にずれている部分も浮き彫りになってくる。言語化をはじめから怠ると、言語化できない部分はあらわれてこない。そっちのほうがよっぽど野暮だと思うのだ。
上原専禄という歴史学者は「わかるというのは自分が何か変わるということだ」と言った。他者を深く知ることは自分をより深く知ることと不可分で、それは曲についても同じだろう。できあがってしまったように見える自分が他者によって変わる瞬間に感動がある。「わかる」「共感する」はほんとはそういう営みのはずだ。だからわたしは、「言語化できるのは表層のところ」というのを、できるだけ緻密に書いてみようとおもうのだ。言葉にならないなら、言葉にならないということを、言葉をつくして書いて、言葉でどうしてもうまらないところが見えたならそのとき、ほんとうにわたしの全人格で「わかる」と言えるだろう。