最近自分の年齢や見た目で気になる事があった。 普段から、比較的年齢より若く見られるのだが(若く見られていいでしょ〜って話ではない)、ここ最近、自分より若い人に、社交辞令のトーンではない本気な感じで、ひと回りほど若い年齢と思ったと驚かれることが何回あった。 そして、それを聞いて引いている自分がいた。 嬉しいなんて思えない。そんなに若く見られてる自分に引いていた。 「ウソでしょ。ちゃんと見えてないの?」 「逆に周りの人が老けてんじゃない?」 なんて相手のせいにしてみたりもし
誰の中にも、陰と陽がある。光と闇がある。 どちらかが良くて、どちらかが悪いという事ではない。 どちらも必要、だからある。 ボジティブがいい!前向きに生きよう! それは一見明るいけれど、もし自分の中にあるネガティブなものを無視したり、ない事のようにしているのであれば、それはその人本来の明るさではない。 ボジティブな所だけ見て、光だけ見て生きる。 それは、なんか、どこか、つらい。 いずれ綻びが生じる。 だって自分の一部を否定しているのだから。 「この自分は良くて、この自分
私は小さい頃から、「普通」とか「みんなと同じなように」という事がよく分からなかった。 自分のままでいると、周りとズレているような、浮いているような、そんな感じがあった。 大人からも普通で、みんなと同じにと言われ、時には怒られた。 それがどういう事か分からなくても、その答えは教えてもらえなくて、小学校高学年頃には頑張って周りを見て、自分なりに合わせるようにしていた。 興味がなくても、そう思ってなくてもはみ出ちゃいけないから合わせる。 そんな感じ。 それが成功してしまったよ
「誰かのために」 これは素敵な想い。 でも、「誰かのため」と言いながら、 「誰かのせい」にしている時があります。 自分の本心は違う所にあるのに、その想いに素直になるのが怖いから、言い訳として「誰かのため」と言う。 これは自分が意識していない所でやっています。だから故意にそういう言動をしている訳ではないんです。 でも自分の深い部分では、自分の見たくない所、見たくない本心を隠すため、そのような言動をしているという事が結構あります。 例えば、先日学生が両親の離婚について
子どもが卒業を迎え、次のステージに向かいます。 この節目の時に、何となくこれまでの自分の子育てについて振り返りたくなりました。 私は23歳で母になりました。 今の時代、ちょっと早めです。 私にとって子育ては、「自分との向き合い」でした。 子どもが小さい時、私は子育てに悩んでいましたが、 ある時、「これは私の問題だ」と気づきました。 長男の《問題だ》と思っていた行動を見て、 小さい時の自分を思い出したんです。 同じような事で怒られ、 そんな自分をダメだと思っていまし
外がすごく荒れてます。吹雪です。 本当に真っ白。 こんな日は、お家でゆっくりに限ります✨
お正月の雰囲気満載のスーパーを歩きながら、ふと思う。 お正月だからって、この特別感、いるのかな? お正月だから○○とか この日はこうするもの、みたいな 当たり前のように、意識せずとも、 そんな固定観念があるけれど、 私にとって、もうその固定観念は必要ない気がする。 おせちを食べる。 お雑煮を食べる。 親戚や家族が集まる。 友だちと集まる。 いろいろそれぞれあって、過ごし方は違うと思うけど。 私は お正月でも食べたい物を食べたい。 お雑煮はお正月じゃなくても食
『季節の中で、冬が一番苦手』 今年の初雪が降って、ふとそう思った。 私が生まれ、住んでいる場所は 雪の降る地域だから、 寒いし、空が暗い日数が圧倒的に多いし。。。 けれど、真冬の一番寒い時期に、産まれた私。 何となく、その季節を苦手って思うの嫌だな。 それ、もうやめにしたいと思った。 自分のどこかを嫌いだって、 自分が自分を否定してるみたいに感じたから。 そんな事を思っていると、 雪の降らない地域出身の学生さんと 雪の遊びについて話をすることになった。 か
相談室には個性豊かな学生さんが来てくれます✨ 時々相談室に来ているAさんとの ちょっと面白い?やり取り。 Aさん:質問があるんです、太陽は寂しくないんですかね? なぜその疑問が出てきたのかというと 太陽は、色んなものに暖かさや、光を与えている。 でも太陽は眩しすぎて、 与えられてる方からは、直接見てもらえないですよね? それで、寂しくないのかな〜って。 私:太陽は自分が燃えたいと思って燃えてるだけだから、 むしろ燃えたいとも思ってないかもしれないけど、 ただそう在るだけ
小さい頃は、内側の世界を楽しんでいた。 内側の世界が、私のすべて。 とても楽しく、幸せな世界。 いつからか、外側の世界を意識するようになり その世界が正しいと思い込む。 内側の自分は否定されたように感じ、 外側の自分 誰かから求められる自分 認められる自分になっていった。 それがいいと思い込んだ。 外側の自分が、自分だと思うようになり、 いつしか内側の自分を どこかに閉まいこんだ。 30歳に差し掛かる頃、 ついに内側の自分が悲鳴をあげた。 「ここから出して」と。 そ
かなりお互いの事をよく知っている相手に、 「そういう所あるんだね」って言われて、 この人は私の事、半分も知らないのかもと感じる。 私は相手の事を半分も知らないのかも。 そして私は、私の事を半分も知らないのかもしれないと思う。 ということは、まだまだ未知の自分がいるということ。 見えていない可能性があるということ。 色んな人や事を通して、 自分探しの旅は続く✨