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リヴァイアサンとエミール
Xでは引き続き、文化祭編が進行中です。
(はじめてこの記事に辿り着いた方は固定している記事をまずはお読みください)
文化祭編
— 望月響(もちづきひびき)とフラグメンツ (@cosmicwings777) October 17, 2023
響と未来が校庭のベンチで模擬店で売っていたフードを買って食べながら話をしているシーン(前半)
未来「結亜ちゃんだっけ?あの子のお人形さん、かわいかったねー 高すぎて手が出ないけど」
響「わたしはこの子買えたから満足」…
クラス展示のバザールに出品されている結亜ちゃんの自作のドールが25万円もすることに衝撃を受けた(?)響と未来はアルバイトについて少し想像してみようとします。
でも、未来は部活のサッカーがあってアルバイトの時間が取れないし、響は実家の喫茶店以外で自分が働く姿がなかなか想像できません。
響も未来もまだ高校一年生
二年生になる頃にはアルバイトのひとつでもするのでしょうか。
それは物語の進展をお待ちください。
今日は「働くということ」について書いてみようと思います。
労働という意味で、今、一番読んでみたい本がこちらです。
『ブルシット・ジョブ』はベストセラーになったので読まれた方もいらっしゃるかもしれませんが、作者、デヴィッド・グレーバーの遺作です。
デヴィッド・グレーバーは現代社会の自動化は生産性の向上による労働時間の削減でなく「ブルシットジョブ=どうでもいい仕事」の誕生に結びついていると主張しています。
ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
ことばにするとかなり痛烈ですね。
ウォール街選挙運動にも参加し、我々は99%であると主張したアクティビストでもあるグレーバーはウォールストリートで働く人たち(1%の人たち)にインタビューしながらこの本を執筆します。
働いている本人たちですらこの仕事はほんとうに必要なのかと疑問を感じている姿を見ながら『ブルシット・ジョブ』という言葉を思いつきました。
誰もがうらやむ高収入の職種をあえて「ブルシット・ジョブ=くだらない仕事」というビジネス書にあまりふさわしくない挑発的な品の悪い言葉を用いることで、世の中に対して、では、ブルシットでないジョブとは何なのか、どうして現代社会はこのような仕事に価値を見出すようになってしまったのかを問いかけているように感じられます。
この物語のテーマとしてシステムとテクノロジーが後半、大きな意味合いを持ってくるのですが、わかりやすくいえば、現代社会を構成する社会の仕組みははたして人間を幸せにしているのか、あるいはどうやって人はこの社会の中で幸せを見出していくか、というテーマがあります。
Xにも書いた通り、仕事というのはいきいきとやりがいを持って働いているという方もいれば、会社の中で仕事を通じて鬱病になるまで精神を追い込まれてしまう人もいます。
わたしたちは精神を犠牲にしてまで働かなければいけないのかという問いが浮かびますが、現代の社会というのは何かしらの方法で働いてお金を稼がなければ生きていけないようにできています。(働かずに(いわゆる企業に雇用されるという形を取らない)自給自足で生きていくというオルタナティブなチャレンジをされる方もたくさん出てきておりそれはそれで意味のあるチャレンジだと感じていますが)
ベーシックインカムの議論が常に巻き起こるのはせっかくテクノロジーがここまで進化したのだから、わたしたちももう少しゆったりと働くあり方を模索しても良いのではないかという意識が高まっているからだと思います。
では、わたしたちは社会とどのように向き合い生きていけばよいでしょうか。
これが哲学的なひとつの問いになっています。
『モモ』や『不思議の国のアリス』も一見、子供向けの物語ですが、物語の随所にこうした哲学的な問いが隠されているからこそ長く世界中で愛される作品になっているのだと思います。
『万物の黎明』に書かれていることは下記のnoteでわかりやすくまとめられています。
ホッブズの「性悪説」(万人の万人に対する闘争)とルソーの「性善説」(自然に還れ)の対立が歴史的に哲学上も社会学上も大きなテーマとして論じられてきました。
人間は放っておくと自分の利己的な動機のために他者に戦いを挑む存在であるとする立場か、あるいは、本来、生まれた時には善であった存在が社会に染まるに連れて悪を覚えるので教育の過程でできる限り悪の要素を取り除く必要があるという両方の立場の対立ですね。
こういった二項対立は議論をシンプルにするには適しているかもしれませんが、記事にも書かれている通り、また、著作の中でも述べられている通り、世の中はそんなに単純なものではなく、文化、社会、歴史の中でもっと多様なあり方を持っており、単純化できるものではないと感じます。
啓蒙主義時代や科学革命による社会の発展を経て、なんとなく、わたしたちは現代人こそがもっとも優れており、過去に生きた人たちから精神的にも生活的にも進化してきたようなイメージを持っていますが、実は過去の文化の中でも現代人より洗練された思想や生活を持って生活していた人々もいるという可能性も十分あると思います。(そもそも脳の構造はそれほど変わらないでしょうから)
また、現代社会というのは多くのものが淘汰されて結果的にできあがった社会であってできあがるまでの間に多くの試みがなされた可能性が高いと考えています。
わたしが歴史や人類学に深く惹かれるのにはこういったところに理由があります。
宮崎駿監督の『もののけ姫』はこうした二項対立では割り切れない自然と社会と人間の関係や、その中で生まれる労働や権力構造について、けっして、わかりやすい善悪論に還元することなく、わりきれないものをわりきれないまま提示しながら美しい物語に昇華させたという印象があります。
「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ。ヤックルに乗って」(アシタカ)
自然と人間の共生を象徴するアシタカのセリフです。
わたしも響たちの物語を通じてこの深い深い問いを考えていきたいと思います。
きょうはここまで
みなさまと一緒にワクワクしながら、この不思議な旅を楽しんでいきたいと思います。