点字図書の会こころのめー理念のひとつ
確かに、「原作者が原文としてどう書いたかを知るため」においては、それが点字であろうとどんな言語であろうと翻訳元を確かめることが必要となることもある。
私自身、多く、それが何語であれ翻訳元は辿り調べる方である。ただ、それが例えばアラビア語だったとして(いや英語でも構わないが)その 翻訳元の文章のニュアンスが確認したところでわかるだろうか。
そして私が宮沢賢治を読み始めて これまた感じてきたことのひとつでもあるが 宮沢賢治作品のような場合殊に、同じ日本語であっても元の手書き原稿で本当に彼本人がどう書いたつもりでいたか、どうやってももどかしくも知るすべはないのである。
いや、もどかしくもと言ったが、そもそも同じ文字でやりとりしたところですら、本人がその言葉や熟語を使うことで何をどう描写しているつもりであったかは、誰にも、本人にもわからない(ちなみにこれと同じことを宮沢賢治も料理店序で言わんとしていると思う)。
更にその上には、その場にいる人たちのイメージの仕方や受け取りかたもまるで違うわけだ。
これは視覚を使って情報処理しているかそうでないか以前の話であり、視覚障害者が表音文字の点字でしか読めないがために晴眼者よりも情報取得量が少ない、という話でも勿論ない。
逆に言えばみんなみんな取得できている情報は欠けまくっているのだ。
そこが、これまたいかに「視覚を使っていることが当たり前であるがゆえにまるで見えない部分までを見えているかのつもりで情報をほぼ完全に取得できている気になってしまっているか」という気付きのきっかけにもなって欲しい、という思いもある。かくいう私も、漢字を知ることができない、これは点字の弱点ではないかとか、漢字がわからないのは悔しいもどかしいとか、「墨字のほうが正しい」気分に浸っていた・また点字は墨字を使えないがゆえの代替文字だというような角度からしか見ようとしなかった短い一時期があった。が、この角度は、あくまで「晴眼者文化で視覚を使っていなければいけない、視覚で物を判断することが当たり前」の側でしか物を見ていない考え方でしかなかった。
そして何より、ここにつらつら書き連ねて言いたいことの大きなひとつは、こういうものこそが、全ての”現代のヒト”の心身の生きづらさの根本になっているということ。
これらに気付くと、いかに心身が解き放たれ視覚を使うひと使わないひと拘わらず、「生きやすく」なるか。
これらの本当に深いところに根付いている、物事(目では見えない本当の物事)の見え方の歪み、いつの間にか晴眼者文化のほうにこそ起こっている視野狭窄、私はこれら言語化では伝わりきらぬこの奥底の部分の感覚を、「晴眼者として扱われていた(る)者」としても、「視覚を使っていない当事者」としても、「心身魂多角度のセラピスト」としても「ヒト」としても、#点字図書の会こころのめ その他を通して、境界を跨ぎ領域を繋げ伝えて行きたい。
そして 視覚での生活が当たり前の人が いかに 目を休め使っていないつもりでも気づいたらいつのまにか無自覚に ものを「みている」か また更にはいかに無自覚に電子画面や人工の光を目に浴びようとしてしまうという現象が起こっているかにも 気づいてほしい
#点字図書の会こころのめ
#眼球使用困難症
— イムラーン~ 心身魂のセラピールーム (@SpiritTherapy_) August 10, 2024