助けるとか助けられる以前に、ヒトとして当たり前のことを当たり前にできていますか。―自分の人生を自分で救いあげる方向へ持っていくこと
私は思う。
白杖のかたの身体を突然つかんだり引っ張ったりするというのも、これがもし街ですれ違う晴眼者相手だったとしても、絶対にやらないよね。
盲導犬に触らないというのも当たり前の話で、
これがもし、
お散歩中の知らない人のペットであっても、
誰かのご家族、お嬢ちゃんお坊ちゃんであっても、
ましてや、誰かがまた他の誰かから借りてお預かりしている存在やモノに、
勝手に触れるなどということ、絶対にしませんよね。
更には、
いくら可愛くたって、見ず知らずの若い女の子男の子(しかも仕事中)の身体を突然触ったり撫でまわしたりしませんよね?
犯罪ですよ。
(ちなみに、盲導犬は盲導犬協会からお預かりする存在である上、しっかりと仕事を身につけて外出中は仕事中、それと同時に一緒に歩いている飼育者さんの大事な家族であり、盲導犬協会の訓練士さんの家族同然の存在でもある!)
これらを、もしそもそも普通にしてしまうというのなら、
まずそこから何かを履き違えて自分勝手なルールの中でだけしか生きてきたことがない、それは「ヒトとして・社会人として」改めにゃならんし、
そこに反発したり、
ましてや「(相手は)目が見えなくて気付いていないから何をやってもいい」という感覚が根底にあるゆえの行為なら、
それはただ単に悪意と差別による行動以外の何物でもありません。
社会人として当たり前のことを当たり前にする、ということは、社会人としての前提です。
障害云々、障害者ができることできないこと云々の前に、まずそこを自己に問いながら生きることが先ではないでしょうか。
少なくとも私はそう在ろうと生きている。
人の道行きを助けたりお手伝いできるのも、自分自身の人生を助けることができるのも、(これ、実はどちらもまったく同じことなのですが)、
まず、社会で生きている中で、それ(社会人として当たり前のことを当たり前にできること)ができるようになってからです。
人としても、視覚障害者といわれる者としても、セラピストとしても、つくづくそう思います。
ついでに要らぬ尻尾を付け加えるなら、
私は生活の物理的なものは全盲の手探りですが、
「ヒトの人生の道」や「心や身体や魂にも通ずる奥底のメカニズム」は視えるので、
上記したまさにそういうところをお手伝いしています。