中途視覚障害のかたは、点字や音声操作を覚える必要があるか?―視覚障害の歩き方

人生の途中から「視覚に頼らない」文化、生活に切り替えるという体験をされているかたの中では、「~は覚える必要があるのだろうか」「みんな使っているけれど、〇〇は使わねばならないだろうか」と考えるときがあると思います。
いや、人生でそういうところに一切陥ることのないかたは、視覚障害に関係なく、ほとんどいないと思うのですが。

そのため、別に視覚障害者用アクセシビリティだとかいう話ではなく、人生のどんな場合でもそうだと思うのですが…。

ただ、今回は、例えばというテーマで、視覚障害のかたの、特に点字やiPhoneの音声操作機能といったところに限って書いてみようと思います。


人生の中で、「何をしたいか」で使うものが変わるなと感じています。

携帯電話を使いたかったらVoiceoverなどを覚えるのと同様に、日常のメモや本を読んだり資料を作ることが必要だったので私は点字を習得し、方向性と世界が思わぬ方向も含めて物凄く広がりました。
私は、もっと早く訓練していれば…と思いました。
何でも使いこなすのに練習は必要ですから。

ただ、点字を覚える(文字情報を処理する)ということ自体から派生して世界と人生があらゆる方向へ広がっていき、思わぬところまで人生が満たされていったのは、やはり点字を学ぶ前から予想できたことなどではなく、副次的なものがどんどんどんどん相乗効果で組み合わさったものであったり、風が吹いたら桶屋が儲かったくらいに芋づる式に変化していったものもあったりします。
と、同時に、共通していることとしては、やはり私が人生で直面することや日常のあらゆる出来事を肯定的建設的に受け止め利用し処理していったことで、すべてが繋がり組みあがり膨らんだということは、あるだろうと感じています。


携帯電話など私にとってはつい最近までただの迷惑な板だったのですが、初めてiPhoneとVoiceoverと出会って、これまた「使える」役に立つ用途に利用できるようになってから楽しくなり、PCトーカーも含め機械も今結構必死で練習中です。もちろん、「機械や機械があることによって生じるしがらみや非建設的副作用に呑まれるのではなく、肯定的建設的な面でのみ自分の人生、日常生活を進めるツールとして取り入れるため」に。


さて、ところで。
私が「点字を身につけて良かったこと」を並べてみたいと思います。

★いつでもどこでもメモをとることができるようになったこと。

★読書ができるようになり、実は人生初めて読書が趣味のひとつとなり、世界がどんどん広がり深まっていること。

★点字で自分でも読むことができる形で資料製作や(例えば人前で話すときの)カンニングペーパー作りができるようになったこと。

★エレベーターの階数ボタンを自分で押せる、また、駅などで点字表記を読むことができるようになったため、大事な時や通りすがりのお声がけの助けがない時に迷ってパニックになるようなことが格段に減ったこと。

★今まで他者の目を借りねばならないのだろうなと思っていたところも、ずいぶん独力で対処できることが増えたこと。

★日常の身の回りの書類や物の見分けに手軽に点字や触覚情報の工夫ができるようになったこと。

★私の場合は点字を通じて初めて当事者の交流の輪や視覚障害団体とどんどん繋がるきっかけを得ることができたこと。

私の場合は、今、生活の情報処理の大きな柱が点字になっている。
実は点字は、身近にあちこち溢れているものであるため、親しんでおくと視覚を使わない言語・文字として大きな情報源、いざという時の道標とはなると思う。

改めて「点字を身につけて」を書き並べてみたら、本当に日常のあらゆるところ細やかに浸透して、こんなに恩恵だらけだったのだなと感じる。

そもそも「文字を扱うことができる」安心感や自己向上感だとか、郵便物がたまにわかるとか、日常の触ってわかるデザインにも楽しみを感じるようになったとか(触りかたが下手だったから触ったところで楽しむこともできず興味が出ず世界視野が狭かったのだろう)、リラックスできるだけでなく心身の深いところに届くセラピーにも繋がる『点字療法』開発だとか、全体的な体感覚の開拓向上だとかいうところまで含めたら、点字の効力は、私にとっては計り知れない。


また、点字にしてもVoiceoverなどの音声操作、PCのショートカットキー操作などで言えば、実は、これが役に立つのは視覚障害者だけではない。
例えば点字は晴眼者の目に触れるところにも実は日常的に溢れており、もしもの停電時や、薄暗いとき、または電気をつけていないときや目を離せないようなときにさっと何かを判断したり記したりすることもできれば、Voiceoverなどは実は誰のiPhoneにも備わっており、ON、OFF操作はワンタッチ。そして晴眼者が操作するときはとても複雑ないくつもの選択操作をせねばならなかったり、ボタンが小さくて触りにくいようなところでも、Voiceover操作では実はワンタッチでできたり、ましてや点字も覚えていればワンタッチで点字入力に切り替えて、キーボードでいちいち小さなキーを選ばねばならないキーボードより断然正確に速く入力できたりもする。
PCのショートカットキー操作などに関しては、実は、PCに強い会社などでは晴眼者でも普通に使っていることなのだ!あらゆる、いちいちどこかのタブをマウスで選びながら、あれ、ここでもない、ここでもないと探すような操作でも、実はキーを1回押すだけでそこにジャンプできたりする。

しかも、私のように例えば点字を学び始めたがゆえになぜだか今までなかったような、読書が趣味となったりだとか、まるで思わぬ方向性に人の輪が広がったり、そこから更なる人生を生きやすくするための道具や工夫が広がったり、人生の豊かさ自体が広がったり、そんなことは、最初からは予測できるものではない。
自分が何をしたいか、と同時に、自分が「何に飛び込むか」でもあるのだ。
ただしそしてそこで大事なのは、「飛び込んだ世界を全部自分のものとする方向にとらえる」「得た情報や道具を、自分をそちらに支配させるのではなく、自分の人生の中に取り込み組み込みいかに使うか」で、方向性やその視野の広さはどこまでもどこまでも広がる、ということ。


私は、そんなことが土台のひとつにあるため、今では、視覚障害に関係なく、点字を通して社会の輪を広げていこう、それぞれの人生をますます便利に豊かにしていこうという、「点字の森」という活動もしています。
その中には、「点字図書の会こころのめ」を始め、図書の音声化や、点字に限らず触覚情報を日常にうまく取り入れていく工夫や、日常生活の工夫の情報共有まで。
(Websiteはもちろんのこと、高田馬場の日本点字図書館や墨田区のボランティアセンターなどにご縁のあるかたは、チラシもおいてあるのでぜひお手に取ってみてくださいね。)


それともうひとつ。
私も、点字にせよVoiceoverにせよ、眼球使用困難症の福祉的な難問あれこれにせよ、飛び込む前は、独りだと思い込んでいた。
使っている人が少ないとか、特殊技能だとか、そんなふうな思い込みを育てる風潮が社会にはあちこちにあるかもしれない。だが、例えば日本人の生活ひとつとったって、豆腐を手のひらの上で切る日常動作ひとつとったって、日本人以外の人種から見れば、特殊技能と言われるのだ。
「自分」の世界を「少数派」だの「特殊」だの「他の世界の人から見ればすごい能力だとか難しそうだと思われている」と、いや、別に思うのは勝手なのだが、だからといって「自分自身がそれを敬遠する」必要があるのだろうか?日本人が手のひらの上で豆腐を切るのは外国人から見ると忍者の高等技術だそうだぞ。それを日常茶飯事に当たり前のようにやっているあなたが、「視覚障害のない人達がこれは難しいだろうあれは難しいだろう」と勝手に言っていることを自分自身にも難しいできないだろうとその世界に飛び込む前からいつの間にか決めつけてしまっているのは、もったいないのではないだろうか?


とはいえ、私とて、飛び込む前は、「飛び込んだらきっと独りなのだろう。仲間など見つからないだろう、自分独りでの研究と闘いの日々だろう。『少数派』なのだから!」などという無自覚の思い込みが邪魔をして、飛び込む前の恐ろしさと覚悟は半端ではなかった。

実は、毎日でも手取り足取り教えてくれるお優しい先輩方が、たくさんいる世界だった。
実は、何かあったときに聞くこともできるコミュニティなども、ある世界だった。
自分が無自覚に、知ろうとしない、また、「知るための方法」を知ろうとしないだけだった。
(更には、その「自分自身が無自覚に本来自分の人生に必要なものを取り入れようとしない、知ろうとしない、自分のために方法や可能性をつかみとろうとしない」という心的に埋め込まれた鎖が解かれていくことで、視覚障害やいかなる障害なども関係なく、ひとが生きる前提である <まず自分自身が自分自身の人生を建設的に進めていく> 力が育っていきます。)

そして、
「世界を知ってから」自分の人生に必要であるか、人生を、日常を豊かにするために取り入れたいかどうかは、選択できる。それ以前の段階では、まず、選択することもできない。
そして私が素晴らしいと思っていることは、こういうことをしながら、「後で選択することができる自分を作り上げる」つまり、まず前提として自分の人生を自分で生きるという土台を成長させることもできる。
自分が人生で何をしたいか、どう生きたいか、そもそも自分の日常をどうしたいかもわからないという状態では、アクセシビリティがどうの以前に、何につけても「~はしたほうがいいのだろうか」「〇〇はせねばならないのだろうか」という思考回路に支配されたままになってしまうだけなのである。
これは、はっきり言って、視覚障害は関係ない。


それと同時に、もうひとつ。語弊を受けやすそうなところなので、追記したいのですが、というより、私は最初からそういうつもりで「自分の人生に何が必要かでの選択でしかない」と書いているわけなのですが、そもそも「点字」であろうが「音声操作機能」であろうが、「マウスを使わないショートカットキー操作」であろうが、これらは視覚障害者が「眼を使えないからそれを補うために作られた代替機能」などではありません。
PCのショートカットキー操作なんて、PCに強い会社は晴眼者たちの社会でも普通に使われているそうです。
私は学べば学ぶほど思いますが、点字だって代替手段などとは言えないほど奥深いれっきとした「文字・言語」ですし、Voiceoverだって、見えないから仕方なく音声で操作する代替機能などでは絶対にないなと日々思わされます。これは晴眼者ですら複雑でできない操作を容易にしたり、晴眼のかたがたですら知ってさえいれば必要に応じてぱっとワンタッチでVoiceover操作に切り替えたら可能となる操作や機能がずいぶんあります!
そもそも、「視力が落ちてきたから代替機能として作られた視覚障害者用のモノやサービスを使わねばならないのか…」ではないのです!
あなたの人生をあなた自身がより良くするためなら、何を選んだって何を選ばなくたって良いのです。


もし、まだ「知るための方法」もわからない、ないだろうと思い込んでしかたない自分がいる、というかたは、この記事を見てしまったからには、私もお伝えできます。
その世界を知ることは、いろいろな世界の知見をまずは広めるだけ。
知らなければ選ぶこともできないが、知ったからといって損害はそうそうないものです。
もしその「損害」を気にして心配してしまっているなら、また、本当にちゃんと自分の人生の建設的要素として組み込むことができるか、取り入れられるだろうかという部分(それはiPhoneとか点字とかいう問題ではなく、自分自身の成長と能力に対する問題)に漠然としたものがあるのならば、それこそ、私はそちらの専門家。
今では仲間と共に、福祉方面のピアサポートもおこなっています。いつでも相談、乗りますよ。

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