アクセシビリティ機能。テクノロジーの勝利?―本当にそう思いますか?

アクセシビリティ機能。

スクリーンリーダー(画面読み上げ機能)である、
例えばAndroid端末にはトークバック、
アイフォンにはVoiceover、
PCにはナレーター

などという機能が、基本装備としてついている。

もしあなたが晴眼者の携帯電話やPC使用者であっても、あなたの携帯電話やPCにも、備わっている。立ち上げることができる。

更には、インストールが必要であるが、PCであればNVDAという民間のスクリーンリーダーや、PCトーカーなどという有償のソフトもある。

他にも、画面認識AI、文字認識AI、道案内のアプリケーションなども発達し、それらを音声操作(Voiceoverなど)と併用して使えば、全盲であってもこれらを使うこともできる。

これらのアプリケーションソフトや機能を組み合わせて駆使して、外出したり、SNSを楽しんでいる人もいる。

更には、福祉機器メーカーさんでは、例えばiPhoneと連動させてGPSでの道案内を、靴につけた端末の振動で、例えば次は右にすすみなさいという時に右側が振動したり、…他にも、最新機器では眼鏡型ウェアラブル端末で、眼鏡をかけているだけで文字や周りの風景を読み上げたりヒトの顔を認識したりするようなものもあるようだ。


「へえ、アクセシビリティ機能ってそんなに発達しているんだ!」
「へえ、歩行支援アプリやナビアプリを使えば、ある程度、慣れていない場所でも行けるようになったんだ!」
「へえ、スクリーンリーダーや音声操作で画面操作したり文字を入力したりして、SNSの投稿でも、メールでも、インターネット検索でも、書いたり読んだりもできるようになったんだ!」

「では、今はもう便利な道具や機械があるから、手段があるから、できるんじゃん。それ、使えばいいじゃん。」
「私たちが、Google Map使わないと流石に知らないところは道覚えてないから行けなかったり、PCや携帯電話使わないとメールや電話やインターネットできないのとおんなじでしょ?で、それ、目を使わなくてもできるようになっている、視覚に頼らなくてもできる方法があるんなら、立場は同じになってるじゃん。電車の中でだってバスの中でだって、今視覚障害者だってみんな携帯いじってるじゃん。」

…と、思っておられるかたも多い様子。


機械の進歩の勝利。
テクノロジーの勝利。


…本当に、そう、思いますか?


もし、そう思うなら、
そう感じている部分が少しでもどこかにあるのなら、
一度、音声操作で機械を使ってみて欲しい。

無料で使えるソフトもたくさんある。
すでにあなたの携帯やPCにも入っている。使おうと思えば使うことできますから。


はっきり言いたい。

「テクノロジーの勝利」ではない。

もし、あえてそういう角度からの言い方(比較)をするならば、

「テクノロジーによって生み出されたあらゆるソフトを、使いこなすまでに死に物狂いで晴眼者が機械を使う何十倍何百倍もの時間と労力と努力…あらゆる精神力を全投入して猛訓練をして、その上でどうやったら晴眼者がごくごく簡単にワンタッチでできているような操作ができるか頭脳を使って工夫に工夫を重ねて編み出して、日常に取り入れるまでに<自分を>鍛え上げた、当事者たちの能力の勝利」です。

これ、機械の扱い方(操作法)という意味だけではありませんよ。

スクリーンリーダーで、画面読ませてみてごらんなさい。

人間が「読む」ということがどういう意味か!
あなたは、墨字情報を「目」で読んでいると思っているかもしれない。
少しでもそういう感覚があるならば、目を閉じてスクリーンリーダーを使ってみてください。
それが、「目で読んでいる」状態です。

「目の代わり」に音声化させたものが、如何に理解困難なものか。

これでSNSを「楽しむ」までに、どれほどの過程があることか。

音声操作で漢字変換、変換のひとつひとつの出し方、文字ひとつひとつを、どの漢字を今表示しているかを知らせるために、怒涛のスピードでしかも途切れなく、別の単語をべらべらと並べ立てることで「これとこれとこれで使われているのと同じ漢字を今表示していますよ」ということを教えてくれる。
打ち込みたい文章すべて、全身全霊の集中力と頭脳の回転で、一文字一文字、すべてこの作業で変換をする。


テクノロジーの進歩がまだまだ足りない、と言っているわけではありません。
「機械」を通す時点で、どこまで進歩してもこうなるのは根本的に当たり前です。

もし例えば。
視覚がなくて動くための手足もなくて、それでも場所の地図だけ詳細に知っている人と、
視覚がなくて手足だけあって言語も頭脳もない人と、
視覚と手足があっても言語も頭脳もない人とが一緒にいたとしても、

目的の場所へ行くことはできないのです。


アクセシビリティ機能というのは、あくまで、我々にとっての「補助的道具」、どうしても独りでこれが今できなければ死活問題というほどのときに、せめてもの足しにするものでしかありません。

しかも、はっきり言って、晴眼者用のPCや携帯電話の使い方はあちこちでビジネス化され習うこともできますしあちこちで発信得意なかたがたが発信しているものを調べることもできますが、アクセシビリティ機能は、基本的に利用者は「情報発信が得意ではない」人たちが使うことが多い。普及の速さでは、圧倒的に敵いません。
そして、(内容的には実は晴眼者の一般的使い方よりも断然ショートカットでいろいろなことができたりすることもあるのですが、)普及率が弱くあまり知られていない&発信力の得意な人たちが広めるという方向にもなかなか動いてもらえていないので、=ビジネス化しにくい、教える人や教室などもあまり育たず、公的に教えてもらうことがなかなか難しい。
(アクセシビリティ機能は、例えばVoiceoverならアップルなどといったその会社ですら、一般人が問い合わせることのできる範囲には詳しい人がまったくいない、などということすら多い。)

これらを使いこなしている人たちは、まさに
「使い方を研究開発」しています。日常で。

あくまで、「開発された機械の存在自体」で、五体満足な健常者とスタートラインを同じにするもの、では、ないのです。根本的に。
あなたと同じことを同じようにできるようにするためのものではないのです。そもそもが。
そして、それを僅かに生活の便利さとして足しにするためだけでも、とてつもない根気と頭の回転と気力と体力、労力、人生での相当な量の時間の猛訓練を費やします。
その上、それでできることと言っても、「表面的にはできているように見せかける」程度のことまではできるようになっても、実際それをやっているときの姿は、どれだけの時間と多岐に亘る工夫を必死で費やしているものであることか。


この現代日本社会の基礎的配慮は、晴眼者向けの配慮が優遇され行き届いた世界。


ヒトのあたたかさ、ヒトという「全体・有機総合体・いのち」による見守りやご協力という配慮に勝るものは、決してありません。


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