横断歩道で白杖使用者が困ることや、嬉しいお声がけ

横断歩道で、さりげなーく
「青になりましたよー」
「今、青です。渡れますよ。」
「今、まだ赤です。青になったらまた声かけますね」
「渡れますよ、良かったら一緒に。私も渡るので(と、私の腕がその方の腕に自然に当たって私がそのかたに掴まることができるようにしてくれる)」→「はい、今ここで渡り切りましたー、じゃ、お気をつけて!(と、さーっと去っていかれる)」

というような、とてもさらっと自然に補い助けてくださるかた、何か私が渡っている横で私にペースをあわせて見守りながら歩いてくれているようなかたが、本当にたくさんいらっしゃいます。

本当に、助かっています。
皆さまのお見守り、ごく自然な通りすがりのさらりとしたお声がけ、たった一言のお声がけ情報のおかげで、本当に毎日安心して出かけることができますし、次回も、外出してもきっと良いのだな、と思うほか、そのときの挑戦する気持ちも養わせてもらうことができています。


先日、とあるかたのとあるSNSでの発信で、
「横断歩道でどういう声掛けをしてもらえたらうれしいか」というテーマの提起がありました。

私は、この記事の冒頭に書いたようなお声がけに、本当に心があたたまり、感激し、助けられています。

その他、そのテーマの発信の会話でも出ていたのですが、

「横断歩道が青のときでも、赤までの時間が比較的短そうだったら、それがわかる場合は教えていただけると嬉しい」というもの。


これも、もちろん自然なさらりとしたコミュニケーションの中で可能であればという話であるのですが、大変ありがたい情報です。

というのも、私の場合は、横断歩道のこちら側の岸に到着したときに既に青だった場合、音響があろうがなかろうが「これは青だな」ともし判断できたとしても、わざわざ赤になるまで待ったり、それがボタン式の音響信号だった場合は、「青なのはわかっているのだけれどこれが赤になって更にまた青まで待つためにわざわざ横断歩道の端っこの音響ボタンを押しに行く」というような挙動不審をすることがあります。

これはなぜかというと、以下の理由。
・横断歩道に到着するまでに、青になってからどれだけ経っているかがわからないため、今(青の途中)から渡り始めると間に合わず渡り切れない可能性が高い。
・横断歩道の長さを知らない場合や、横断歩道が長くてそもそも渡りきるのに青の時間いっぱいかかるとわかっている横断歩道は、既に青になっていても間に合わない可能性を優先して考え、渡らない選択肢をする。

というためです。

音響ボタンを押せば少しばかり青の時間が長くなったりする横断歩道もありますが、それにしても「次の青」ですし、そもそも少なくとも私の自宅の近くの横断歩道は、音響ボタンを押しても青になってからすぐそうとうスムースに渡らないと、渡り切るまえに音が消えてしまう横断歩道が多いのです。

しかしながら、晴眼者目線では「信号が青」というのが見えていますし、急いだり走ったりすれば間に合うという潜在的前提認識があったり、
「横断歩道の途中でハプニングがある可能性」などあまり考えないということなどから、上記のような状態でも「青ですよ、渡れますよー」と声をかけてくださるかたもいらっしゃいます。

ただ、白杖使用者としては、やはりどうしても「間に合うか」という問題がよぎるので、そのための判断要素も必死で集めています。

ちなみに、音響信号の場合、音響は「青の点滅」と同時に既に音が消えます。 ですので、目で見ている人にとってはまだ点滅している青が見えるかもしれませんが、私にとっては突然音がなくなり渡っていいかどうかの大きな手掛かりに突如手を離されたような状態。

残りの横断歩道があとどれくらいの距離があるかもわからない。
まっすぐ歩けているか、終わりまで最短で赤になるまでにまっすぐ歩けるか、ハプニングが起こるかどうかもわからない。
渡っている最中自体、緊張の頂点ですが、その上、途中で赤に変わる(音響の音が消える)と、心臓が凍り付きます。

そして、白杖使用者は「急げません」。
いや、急ぐことはしますが、客観的に見て、例えば走るだとか、急いでいるというほどの急ぎ方になりませんし、急いだほうが思わず身体の方向がブレてしまっていたり、目の前の地面を探り切れず道路の凹凸や障害物にとられてしまったりしかねません。
音響が止まりそうやって心臓が凍り付けば、スピードアップどころか逆に横断歩道をうまくまっすぐ順調にわたりきる、という成功率自体も落ちてしまいます。


他、少し違う話ですが、音響信号の場合、案外、思わず、「青なのにならない」現象が発生するように感じます。
時間帯の問題であったり、日程の問題であったり、何か機械の不具合であったり、私側の勘違いで「この前鳴っていたから音響だったはず」と思いながら実はボタン式であったり、はたまた、街の雑音や近くの工事の音などと音の反響具合や音響自体の音量などの条件が重なって「聞こえない」現象が起こってるなどなど、いろいろな理由が考えられますが、「音響のはず」ゆえに、鳴っていないから、状況的には青だと思われるし渡れそうなのだが渡っていい判断がつきかねるという場合も結構多いのです。


そんな諸々のことがあるので、私は、冒頭部分に挙げたような(すべて実際に既に良くお声がけいただいている例なのですが!)お声がけが大変助かっております。


「こういうお手伝いが必要だああお手伝いしなければ」とか「一度声をかけたらしばらく面倒をみなければ」などなどでもなく、
とてもさり気ない、自然なごく一言で、実は物凄く助かっているのです。

他、
またちょっとだけ違う例ですが、
バス停で、同じくとてもさり気ないのですが、「あの、バスが来たら、どうやってお手伝いしたらいいですか」と、お声がけくださったかたもおられました。
そうすると、その時必要な情報をお願いできたり、問題がなければありがたくお言葉だけ受け取りながら丁重にお断りすることもできますし、何よりそのあたたかい「お声が発される」ということ自体から小さくもあたたかい一期一会のコミュニケーションが生まれます。

お声がけくださるかたも、ご自身の心と身体があたたかくなる方向の選択をしていただきたいですし、私も、心と身体が(もちろん安心安全を含め)あたたかくなる方向を選択します。

義務でもなんでもなく、日常の街角のふとしたヒトとヒトとのコミュニケーションなのです。


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