街で白杖を見かけたとき、白杖使用者と一緒に歩くとき―視覚障害の歩き方
お互い安全に移動できるようにとのご配慮、優しさで、街で声をかけてくださる皆様、
また、白杖のひとを見かけるけれどどう誘導したらいいのか…という皆様へ。
今日は、一緒に歩いているとき編です。
無論、人にもシチュエーションにもよるとは思いますが。
基本的に、白杖使用者に腕を貸してくださったときは、そのまま捕まられたまま、その人の半歩前をいつも通り普通に歩きだしていただいて大丈夫です。
視覚障害者は「目が見えないために移動が困難」なのであって、複合障害などがない場合は、足腰は大丈夫です。前方に何もないとわかってさえいれば、走ることだってできます。
たまに以下のような体験をします。
私が肘に掴まっているのに、一生懸命後ろ(白杖使用者のほう)を向きながら歩こうとしてくださったり、白杖使用者が動き出すまでじっと見て待っていたり(見られているとはこちらにはわかりませんからなぜか動かない状態)、私が軽くしか肘を触らないからぐいっと支えるように掴んでくださったり、ということが。
心配してくださるのは大変ありがたいのですが、実は、白杖使用者は、肘を触らせていただけば、後は「そのかた(誘導者)の動き」を感じ取ることによって反射的にその人の動きの方向や地面の状態などの情報を身体で感じ取り、自然についていきます。
しかも、白杖と同じで、力を入れてぐっと固めるように掴むより、触れるだけくらいのほうが、情報取得しやすいのです。
なので、寧ろ、ぐっと掴まれ押さえられる形になったり、無理な捻じりで後ろを向かれたりすると、お互いに動きにくく危険が生じることがあります。 また、半歩前を「では、歩きますね」と一言かけて、そのまま歩かず止まっていられると、白杖使用者もついていけないため歩き出しませぬ(苦笑)
ちなみに、つい先日、駅員介助でしたが、こんなことがありました。
「では、まっすぐ進みますね。」「はい。」…(両者動かず)「…あ、あ、大丈夫ですか?」「あ、はい、普通に歩いていただければ大丈夫ですよ!」
実は階段などですらそうなのですが、スムースに自然に動いているほうが、私たちの身体には、あなたの「見ている」世界が「視えやすく(感じ取りやすく)」、しぜーんにいつの間にかあなたの身体についていくことができます。 実はこのほうが断然、両者とも安全な方法なのです!
これ、実は古武術の超基礎的な原理でありながら奥義でもあります(笑)
実は私はセラピスト(心理療法家)として、まったく別の角度でこういうワークをすることがあります。「目」ではなくて、「身体」でついていくと、「目で見ながら更に触っている」状態よりも、断然、いつの間にか自然に機敏についていくことができます。これは視覚障害者の特殊能力でも何でもありません。
思い出してしまったので本当についでに追記なのですが、こんな体験も。
階段を上り下りするとき、一段一段、わざわざとまって、私が同じ段に行くまで待ってくださった駅員さん。
これ、実は、逆に強烈に怖いです。
止まられると、段差がどこにあるのか本当に逆にわからなくなる上、身体のバランスがとれなくなるのです。
勿論段差を勘違いしたり目測(体観測?)を誤って踏み外す可能性はあるので、見守っていただけるのはありがたいのですが、駅の階段などであれば、うまく移動し始めることさえできれば、寧ろリズムに乗ってあなたの半歩後ろをついていくほうが、身体が反応して成功率があがります!
これらと同じように、というより、実は上のたとえ話の中でも
「白杖と同じで、力を入れてぐっと固めるように掴むより、触れるだけくらいのほうが、情報取得しやすいのです。」と書いていたことを覚えていらっしゃいますか?
実は、白杖も、如何に力を抜いて軽く操作するか、が熟達ポイント。
白杖を持った手の要らない力を極力、抜くことによって、実は、多分みなさんが想像しているよりもとても多くの情報を、我々は白杖の先から得ています。
なので、白杖や白杖を持っている手をぐっと掴むなどは、絶対にしないでください。
そしてもうひとつ例えるならば、私たちにとっての白杖は、晴眼の皆さんの「眼球」と一緒。
なので、白杖や白杖を持っている手をロックされるということは、あなたが突然「眼球を掴まれ動かせなくされ」たり、突然「目隠しをされる」のとまるで同じことになってしまい、一瞬の判断を誤ってその瞬間に足を踏み外して転倒してしまったり、身体が硬直してパニックを起こし、せっかく誘導しようとしてくれたあなたを巻き添えにして転倒したりぶつかったり両者怪我に繋がるほどの事態を起こしてしまうことがあります。白杖使用者だけでなく、せっかく助けてくれようとしたあなたも、白杖使用者側も、双方にとって非常に危険です。
ところで、皆さんは、「眼球」を動かして視線をぶつける(物を見る)ことにより、道を発見したり、障害物をやっぱり「見つける(視線をぶつける)」ことによって、その障害物を避けたりしていますよね。
我々もそれと同じで、白杖の先をぶつける(当てる)ことによって、そのものの存在を知ります。そのため、それが道の地面であればそのまま進みますし、障害物であれば、避けるという動作ができます。
あなたも、障害物を「見る」ことができなければ、避けることはできないと思います。あるかないかもわからない状態なのですから。
また、あなたも「銀行の建物が出てきたら右折する」などと覚えていて、「銀行」を「見る(視線をぶつける)」ことによって、初めて思うところで右折することができますよね。
私たちも、危ないと思われがちですが、「白杖の先で物を視る(察知し判断する)」ことによって、初めてその物体が「何で」「どこにあるか」を知り、そこを通ったり避けたり曲がったり直進したりすることができます。
これが、「白杖の先」であれば、視線をぶつけているのと同じですので、基本的には「まだ、危なくはない」わけです。(もちろん例外はあります。もし白杖が道に落ちている汚物やら炎に突っ込みそうになったりしたら、私たちの視線は物理的物体なので非常に危険です!こういう場合はどうか止めてください!)
ただ、もし、「身体からあたりそうになっていたら」これは晴眼の皆様と同じく、危険です。
特に、足元ではなく、上のほうにあるもの…例えば、腰から上の高さで横の植え込みから飛び出している木の枝や、止まっているトラックのミラー、店から頭の高さに飛び出している看板などなど…。
この辺りのものは、私たちは察知することが非常に苦手です。
当たる前に見かけたら教えていただけたら、大変に助かります。
ただし、もちろんですが、白杖の先がもうすぐ壁にあたる、電信柱にあたる、あ、前にトラックが止まっていてもうすぐ白杖の先が当たる、というような時も、「前方にもうすぐ壁がありますよ。」などと、教えていただけるとこれも大変ありがたいです。
なぜなら、晴眼の皆さんは、遠いところからでも見て次の行動を予測判断できますが、私たちの「目」は、「白杖」という、せいぜい1Mちょっとの先の、しかも1度に1点(1センチ四方程度)しかわかりません。
ですから、「事前情報」があれば、大変助かるのです。
ただし、実は問題はそこではなく、私たちの場合は、例えば「前方にもうすぐ壁がありますよ」と教えていただいても、「ありがとうございまーす!」と言いながら、その壁に変わらず突き進んでいくことがあります。
そういうことがあっても、怒ったり、「せっかく教えてあげたのに」とか、思わないでくださいね、ということです。
私たちは、教えていただいたその情報で「あ、やっと壁までたどり着いたか!目印がなかなかない平坦な道を不安に進んでいたけれど、もうすぐ壁があるんだな、よかった!」と安心しながら(しかしこの時点ではまだ私たちには壁がどこにあるのかまではわかっていません)、その壁に白杖を当てることで、その壁の位置を確認し、そこで初めて、次に右に曲がるか左に曲がるか、はたまた壁を突き破るか、行動を決定することができるのです。
私は、家のある道路に辿り着いてから(晴眼であれば既に家の建物は見えている、家まで直進50歩ほどの距離)、家に辿り着くまでに、わざわざその道路の「家があるのと反対側の端」を歩き、白杖を少し細かく動かしながら電信柱を1本みつけ、その後、また1本見つけ出したところで、反対側に渡ることで自宅を発見します。
しかも、電信柱は太さが微妙なので、私は念のため、何回かこんこんぶつけることで「あ、これはごみ箱でも看板の細い柱でもなく、電信柱だ」と初めて判断します。
避けるためにも、曲がるためにも、目印にするためにも、まずはじっくりと、それが「一体何であるのか」認識するために、その対象物を「見たい」のです。
面白い世界を生きているな、いろいろな方法があるんだな、
へえーそうだったのか!
…と思ってくださったかたは、ぜひ、視覚優位ではない人たちの世界とも、仲よくなってみてくださいね。