白杖使用者に声をかけて、「大丈夫です」と断られたときは―視覚障害の歩き方
白杖使用者は、基本的に、道に迷ったり困っていたり、実はものすごく緊張しながら恐る恐るやっとの思いで歩いていたとしても、本人から「誰かに声をかけて助けを求める」ということが、できません。
どこにどんな人がいるかからして、わからないから、どの方向を向いて声を発すればいいかすら、わからないからです。
かといって、白杖使用者が「困っているかどうか」、晴眼者から見ると、実はわからない場合も非常に多いようです。
目で見ている側から見ると、なかなか軽快に歩いているように「見える」けれども、実は本人、ものすごく困っている、ということも、実は私は結構あるようです。
そのため、目で見て「あ、白杖のひとだ」と思っても、声をかけることは、やはりとても勇気のいることかもしれません。
それでも、誰かいるかいないかすらわからない歩道の真ん中で、怪しい狂乱者と思われて逆に話しかけてもらえなくなるリスクを背負うこととなる白杖使用者が叫ぶよりも(私は先日それをやって本気でそれを痛感しました。逆に通行人たち、遠巻きになる上、足早に去っていってしまうのです!晴眼者文化では普通しないから!)、それを慮って勇気を振り絞ってお声がけくださること、皆さん本当にありがとうございます。
お声がけの勇気の中に、
「もし断られたら、どうしよう」というような思いがある、というお声をちらほらいただきます。
本日の記事では、それをテーマにしてみようと思います。
もし、お手伝いを「大丈夫です」などと言われて断られたとき、どうしたらいいか。
これももちろん答えはひとつではありません。
が、例えばですが、私は、
「ただ、『ああ、良かった!お気をつけて!』などと、一緒に喜んでくれればそれでいい」
と、思います。
それだけでじゅうぶんです。
なぜなら、というところをごくごくかいつまんで手短に言えば、
例え慣れた道ですらも「その日その時その状況での一歩先の地面」がどうなっているかすらもわからない白杖使用者が、「本当に難儀していないとき」というのは、滅多にないからです。
手引きはおろか付き添いすら断るということは、それほどに「(手助けをお断りしたいまたはしなければならない)何かの事情があるとき」か、「本当に道行きが順調で、自分のペース自分の力で単独歩行してみたい、自主訓練しながら行きたいとき」です。
いや、私の場合は、自主訓練しながら行きたい場合であっても、それを伝え、
「道を覚えたくて今、自分で行けるようになる訓練をしているのですが、もし方向が同じなら少しだけ一緒に見守っていただきたい」旨を、その場その場の言い方やコミュニケーションの中でお願いします。
それほどに、「見守り」は非常に重要な安心を与えていただけるのです。
※※※
ちなみにですが、これは視覚障害に関係なく、「大丈夫ですか?」とはあまり聞かないほうが良いかもしれません。
漠然と「大丈夫ですか?」と聞くと、大丈夫でなくてもつられて「大丈夫」と答えねばならないというような感覚が働き、「大丈夫です」と断られてしまう可能性が跳ね上がります。
例えばですが、白杖使用者を見かけたら、その人が重い荷物や仕事をこなしているか、大量の炊き出し料理でもしているとでも思ってください。
「お手伝いしましょうか」「何かお手伝いできることありますか?」
や、
「私と同じ方向にいらっしゃるようなので、どこかまでご一緒しましょうか?」などと言っていただけると、「実は…」と、遠慮がちにでもお手伝いをお願いしやすいです。
※※※
ですので、もしそれで、
「(今は)大丈夫です」などと言って断られたら、
そのかたが今、目的を達成しようと全身全霊で行動している中で、「困っていることがない」「順調」!!
ということなので、
「良かった!」と一緒に喜んでいただけたらもうそれ自体が物凄く大きなお手伝いです!
「それなら良かった、気をつけてね!」と一言くださるだけで、「ああ、この人から見ても、私は今、実は危険だったりすることもないようだな。」と、自分の順調を確認、自分の大丈夫を裏付けることができますし、そもそもお声がけの時点で「ああ、実は見守ってくれている人がいたんだ」と気付くことができます。
この前の記事でもかきましたが、実は、その「お声がけ」自体で、声をかけられた瞬間に「大丈夫」になることもあります。
目(視覚)ではなくこころで歩いている私たちは、何らかの不安や恐怖や緊張などでその時のこころの視野が狭くなってしまっていたりするだけで、本当に自宅から数歩のところでも(下手すれば自分の家のキッチンでも)盛大に迷子になります。
外出時などは、外出の緊張だけでも、「お手伝いをお願いしてもいい」というところにフタがぱちんと覆ってしまって、安心してお手伝いをお願いすることすらハードルがあがってしまっています。
そのため、お声がけだけで、「ああ、見守ってくださるかたがいてくれるんだ。では、もしお手伝いが必要になったら、声をかけてお願いしてもいいのかな。」と、安心感を与えることができますし、実は「その日だけ」でなく、翌日や、その何年後にも、出かけたり行動範囲を広げる勇気として蓄積されていきます。
あなたのたった一言の「お手伝いしましょうか?」とか「今、(信号が)赤です」「青です(たった4文字!)」などが、白杖使用者の人生もひらくのです。
私はどれだけのひとの「たった一言」のおかげで、この1,2年でどれほど思わぬ行動範囲の広がりで人生も広げてきたでしょう。
もし、あなたが、台所で例えば大家族の分の料理を作っていて、
「何か手伝おうか?」と言われて、「これくらいなら大丈夫だな」と思って手伝いを断ったら、「どうして俺の手伝いを断るんだ!」「お前、ひとりで大丈夫なのか、大丈夫だとでも思っているのか!」とか、「手伝いを断るなんて、拒否された拒絶された、私なんか要らないんだ」などと、反応されたり、しませんよね?
白杖使用者とも、同じ「ヒトとヒトとのコミュニケーション」です。
もし万が一、白杖使用者の余裕がなさすぎてあなたがきつい断られ方をしたと感じたり、怒鳴られたりしたら、「その本人」の中に、あなたのお手伝いを受け取ることができない別の問題があります。
「視覚障害者」「白杖使用者」だから、ではありません。
それと同時に、本人の中に巣食う「そういう別の問題」は、あなたに道端で今どうこうお手伝いできる問題ではありません。
寧ろ、もしお手伝いできるとしたら、心身の専門家です。
逆に、お手伝いを断られることが、あなたの中でなぜかいつも拒絶的暴力的に感じたり、「拒絶された」「否定された」「私は要らないんだ」のように感じてしまう場合には、あなたも、とても生きづらさを抱えておられるのだと思います。
もし、そういう場合であれば、もしかしたら、そちらは私が何かお手伝いできることがあるかもしれません。
私は、街中で単独歩行時の具体的な「目に見えるあれこれ」では確かにいちいち難儀しますが、「生きづらさ」や、「心身の何かよくわからない不調」「物事の受け取り方や感じ方」などなど「目には見えない領域」については、専門家ですので。
「目には見えない人生の道」においては、誰もが、実はおひとりおひとりの白杖を持って生活しています。私は、「目でなら見える街中の道」でたくさんのかたにお手伝いいただく代わり、「目では見えない人生の道」を歩くお手伝いをさせていただいている専門家なのです。
いろいろな角度から、同じ空の下、お互い生きづらさを解消して、生きる方向に歩を進めて行きましょう。
そして、もちろん!
白杖使用者への対応のしかたやお声がけのしかた、お手伝いについてなどなども、何か気になることがあればお気軽にお声がけくださいね。
もちろん、白杖使用者のかたで「お声がけしてもらったときにうまくお手伝いをお願いできない、どう反応したらいいだろう」というような場合でも。
一応言語化の専門家でもあるセラピストとしても、白杖使用者としても、私にお伝えできる範囲ですが、お応えしていきます。
ホスピタリティをもってお声がけしてくださるかたの側も、安心して、気軽にお声を発していただける輪を、広げていきたいですね。
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