信頼できる人間とは―誠実とは、信頼とは

つくづく思うが

私は決して己を信頼されることができるような人柄であるとは思っていない人柄を信頼していますなどと言われても、違和感でしかない
しかしながら、もしもその私の人柄を信頼し、安心したり喜んだり誠実であると感じてくれる人がいるなら、
それは偏に、
その人の価値観でしかない。…などというと酷い言いぶりだが、何と言うのか、

ひとつ言えるのは、私は恐らく、己自身に対しては誠実である。己に対して誠実であるとは思っているし(どんなに少なくとも今は)、そう在ろうと思っているし在りたいとも思っている。

すなわち、先程の言いぶりは酷いが、つまりはその人たちは、私のその態度、己自身への誠実さを彼らの価値観において感じて下さっているのだろう。

…そして…その人たちを見ていて感じるところ、時にそれは、かなり強烈に。感じておられるかもしれない。

客観的に見れば確かに、私の己に対する誠実度合いは、もしかしたら強烈なものがあるかもしれない。誠実、というのか、忠実、というのか。

これ以上今は言語化できないが。

なぜならそれ自体が「生/在る」というものである(これも語弊がある)と、寧ろそれ以外のものではないと、感じている部分があるから。かもしれない。



…酷い表現をしてしまった代わりに付け加えると、
同時に、
己自身に誠実である、ということができることで、
初めて、
”本当の意味で”相手に誠実である、ということが実現する、とも、別の角度から書けば、言えるものかもしれない。

私は表面的な部分だけ見れば、セラピストとしてクライアントに、嘘八百ばかりである。そもそも、「言葉」というものは酷く狭義な一角、一部分しか表すこともできなければ解釈する側によってはまるで違った意味にとらえられる、つまり、「言葉」というものは「嘘」しかつくことができないものであるからして。

私自身、まさにこれは長年苦しんでいたことでもあった。

相手に、クライアントに、誠実であろうと思えば思う程、相手に伝わるものも伝わらなくなっていった。相手にも誠実を求められるし、宇宙の真髄を教えろとばかりに「本当?それは本当?」とやられ続けてきたから。それに応えれば、相手の解釈の仕方で受け取ってしまうため、こちらは勝手に誠実を演じても相手に誠実さは決して伝わらない。言っていることの意味ですら、まるで違うものとして…。

己に誠実を貫くようになってからは、これまた乱暴かもしれないが言ってみれば、いけしゃあしゃあと嘘八百まみれになった。

というのも、しかし、相手の土俵、相手の段階に寄り添って、相手が、自分の真髄で私の言っていることや目の前の真髄を受け取ることができるために”現段階で必要なこと”

…つまり、私が良く例える、意識の社長さんは目の見えない人と一緒であるという例えで、意識の社長さんは目の前のものが見えていない、自分の知りたいものが見えていないから、だから例えばそこにあるものが紫であったとしても、紫というもの自体がわからない、伝わらないかもしれない。だから、”今”相手にわからない言葉で伝えているパフォーマンスだけで投げつけるよりも、最終的にその人が目の前のものを「紫」と認識できるような道筋を自身の中に見つけることができるためなら、私はそれと全く同じ対象を午前中のクライアントにはまことしやかに「そう、それは黄色なんだよ」といい、その口でその数時間後、午後のクライアントさんには「そう、それは赤いんだ」などと言うようになった。

だから、私は己に誠実、忠実であることは必須と思っているが、これはとても「信頼できる人柄」であろうか。心理セラピストは、宇宙一の詐欺師だと思っているくらいだ。だから、己の人柄を信頼できるものだとなど到底思っていない。

もうひとつだけ、別の角度からも書いてみると。
私は、「(人柄や誠実さを)信頼している」と言って下さる方、表して下さる"方々"に対して、それを決して保証することはできない。
これは自明だ、なぜなら、その”人々(複数)”が、それぞれに私に求めるものや、私のその方その方への誠実さや人柄の感じ方は、まるで違うからだ。
いちいちそれを読み取って応えることができるわけではないし、そんなことをいちいちしようとすれば、それこそあっという間にそれは不可能になる。
つまり、私の人柄や誠実さを信頼していると感じて下さっている人たちは、実はあくまで「私のあなた(それぞれ一人ひとり個々)への」それを信頼しているわけではなく、”恐らく私が己に対して常に誠実であるであろう”ことを信頼してくれているのだろう。しかも、ご自身がご自身のその感覚を信頼する”ことによって”。
ついでに言い換えれば、私は寧ろ「私があなたに対して誠実?そんなもの決して保証することなどできない」「私は確かに己に対して誠実であることはある程度信頼しているかもしれないが、私があなたに対して誠実かと言えば、そんなものは私(己)は到底信じられるものではない、それは”あなた”が”あなたの尺度”で、”あなた自身への信頼”において感じ、決めることだ」と言ってしまう「誠実さ」に対して、誠実を感じて下さっているのだろう。
そして、それでなければ(要するに自分に対して誠実であるということ)、他者に対しても誠実であることはできないし感じてもらうこともできないのであるから、その信頼は、必ず”信頼した者”へと必ず返っていくこととなる。

そして、本当に、ありがたいことである。


随分と自分勝手な言葉を振り回してしまったから、もうひとつ付け加えておくと、
私は、そうして私に信頼を寄せて下さる方々のことを、同時に揺ぎ無く信頼している。
そして、これは、これも言い方ではあるがある種の角度から言えば、己(その己の誠実さ)への信頼、自己信頼という土台があるがゆえに、あるものだということも感じる。
相手が他者であろうが己であろうが物であろうが、「信頼する」のは自分である。ということは、自分(対象を信頼している自己)を信じることができる土台が育っていなければ、決して何物・何者をも信じることはできないのである。他者信頼とは、自己信頼のことなのである。そして、自己信頼は、その時点で既に、他者信頼である。
心と身体が繋がっていると同じように、これは繋がっている…全く同じものだ。自分を信じているけれど他者は信じられない、他者は信じられるのだけど自分を信じられない(自信がない)…こんなことは、実はあり得ないのである。
もしそんなちぐはぐな感覚があるとしたら、それは、どんなに少なくとも、本来の「信頼」ではない。それを感じているあなたの中に、何か絡まった、叫びをあげている何かがあるということ…。


ついこの前、こんな記事を書いたが、私として、今書いているのはこれとほとんど同じ感覚である。
自分に誠実であるから、というより、それだけなのだ。それだけ(それさえあれば、だが)で、相手に本当の意味での寄り添い・本当の意味での共感が可能となる。というより、勝手に現れてくる。
それはすなわち、己の細胞ひとつひとつが、生きている自覚と、それを通して計り知れない幸せと喜びを感じていることを常に感じていること、そしてクライアントさんのそれも己のそれも己の眼にしっかりと映していること、でもある。


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