能力を発揮することができるために「当て嵌まる」必要のあるフレーム?
私たちは、なかなかアルバイトを転々としていた時期があった。
また、登録制の派遣のアルバイトにいくつも登録していた時期があった。
今は実質、内容的にもう難しいものがほとんどであるが、しかしながら、視覚の状態、認識状態がかなり薄くなり、白杖を鞄に入れ出していたような時にも、たまに工場での作業など、単発で行っていたことがあった。
行く前に内容がほぼわかっている検品作業など、とはいえ2回ほどしかやったことはないが、一度場所や感覚をまず覚えたらもう視覚よりも手先の感覚で行っていた。
障害者手帳を取得してからというもの、社会的に何が変わるのか、実際何か利用して生活の助けとすることができるものがあるのか、社会経験という意味もあり、またセラピストとしていろいろな角度から知っておこうという意味もあり、個人的に己の可能性を拓くきっかけを少しでもとも思い、最近、就労移行支援の施設に話を聞きに行ったことがある。
そこでいろいろとわかったこと、学びとなった社会の現状などがあったが、その中で、障碍者雇用をしている企業でも、結局のところ就業ルールのベースに一日8時間労働と週休2日という部分がどうしても当たり前のように敷かれている現状がある。
これに関しては元々知ってもいたのだが、実際はっきりと聞いてもやはりそうだった。
そして、就労移行支援においても実情として何をやっているのかというと、そういう社会に何とか適応するために、利用者に事業所でランニングマシーンを走らせて体力強化を図っているようなところが関の山だという。
就労移行支援施設の所長が、これが現状だと言ったのだった。
そして、もし、例えば私などであれば、私は体力の問題ではない。
私は視覚で外界を認識できている状態を長時間維持することが難しい。
視覚での認識を働かせていなければならない作業は、ひとりで事務作業をしていても、時間を区切り、その中でも休憩を挟んだり勝手に閉眼反応が起きたらしばらく視覚を使う作業は中断し、そして無理(負荷)は眼痛頭痛に直結し体調不良を起こすことになる。
しかし、こういう特性には打つ手がない。そして現状、現代日本において障碍者雇用を可能としている企業は事務職であったり、視覚をフルに働かせるものばかりだ。
しかしながら、私は過去の経験で、短時間就労で、しかも少しの工夫さえ協力してもらえれば視覚に頼らずとも可能となる作業の仕事を知っている…。
しかし、そのような短時間就労、また(ほんの少しの工夫さえできるのであればという条件はつくが)手先の感覚などで補い視覚に頼らずとも良い、しかも一日中ほとんど移動もなく手元で行うことができるような作業の求人は、基本的に"障碍者雇用”をしていない。
つまり、あの頃はまだ、私は黙って、職場の近くまで白杖を使ってもその後杖を鞄の中にしまい、ヘルプマークはつけていてもなんとか一緒にいる人たちについていき、ということができた時は、実は黙って作業をしていた(しかも実はあの時は手元の作業のためみんな強いライトを手元にあてていた。私は羞明で逆に見えなくなると言ってライトをつけずに作業することもできた)。
しかし、さすがに職場の行き帰りも完全に白杖が必要になっては、持ち場に付きさえすれば、そして一番最初さえ誰かと一緒に確認させてもらえさえすれば(因みに実際行った時も派遣の単発であるので、晴眼者のやり方ではあるがどうせ最初は正社員や経験者の先輩が一緒にやって教えてくれていた、そこのやり方にほんの僅かに工夫を加えてもらえれば良いだけなのだが)、作業をすることもできるのだが、それでも、やはり”視覚障碍者”に”見えて”しまうと、その途端に就労することができなくなる。
これは、健常者と言われる人たちの世界でも実はそうだ。派遣就労は、基本的にいつも必要ないような変な基準が設けられていて、そのために、その仕事には不似合いな人たちが無理をしてその仕事をする羽目になったり、逆にそれが得意な人たちがつまらない関係のない条件のためにその仕事に就けなかったりする。
その仕事に就くことができたとしても、例えばイベントの設営の仕事などであったら、その場で「では男性は〇〇の作業を、女性は△△の作業を」などと区分けされ、私は力仕事の方が得意だったのに物凄く苦手で時間のかかる細かい作業をやらされてついていけず辞めたと、話していた女性の友人がいた。
そして、身体が細くて力がなさそうな男性が必死で作業をしていて見ていて居たたまれず代わりたくなったという。
私は今、セラピストをしている。
同時に、やはり同じ催眠療法士でも、他の催眠療法士たちとは少々やり方を変え、工夫をしているところもある。
”晴眼のセラピスト”が晴眼のやり方でやっている部分は、工夫して私のやり方で補う必要がある。しかし、だからと言って、晴眼のセラピストに劣るとは思っていない(無論、得手不得手は出ては来るが、これは晴眼の人たちでも同じであろう)。寧ろ、こう言ってはある意味申し訳ないかもしれないが、晴眼の方よりも工夫を凝らしたりその場で対応するための土壇場力なども鍛えていたり、五感をフル活用してひたすら鋭敏にアンテナを張っていたりするので、晴眼のセラピストと観察力や洞察力は互角、または晴眼の方が気付きにくい部分で私が気付きやすい部分もあるように感じている。そもそも観察力や洞察力は晴眼の方でも鋭い人もいれば、ここに気付けずにセラピストをやっているのかと思うような人もいる。
ついでに、私はその補いを、クライアントさんにも協力してもらうこともある(クライアントさんが自覚しながらそれをすることもあれば、自覚せずに協力してくれるように仕向けることもある)。
そしてそれは、クライアントさん、もしくはクライアントさんの潜在意識と、深いラポールを築くために非常に有利な要素となることもある(というより、それがわかっているからそうしているわけだが)。
また、カウンセリングの際、私が視覚障碍であるがゆえの視点で出てくる概念や例え話、話の受け取り方、クライアントさんの気付きなど、今やセラピーに随分有用に利用できるようになってきている。視覚障害を持ったセラピストであるがゆえにクライアントさんから良かった、わかりやすいと言ってもらえることも多いし増えている。
更に言えば、私は表面的な光子を媒介とした視覚情報が入ってこないがゆえに”視える”ものが、クライアントさんの身体にも声にも潜在意識にも随分とあると感じている。
私自身が心身障碍の当事者であることで、”視える”こともあれば対応できることもある。
しかし、私は他の誰かのやっている社会的施設においては、セラピストとしての所属は恐らくできないだろう。
私は誰かと症例データを共有することができるためのカルテの制作も困難なのだ。
私はカルテは頭の中に毎回膨大に広げているし、必要な時のためには音声で記録もとってはいる。私なりのやり方で紙に書くということさえしてはいるが。
しかしながら、PC画面を使ったり所定の紙に手書きをしたりすることに時間を費やすことが難しい。”他の”セラピストたちと、同じやり方で同じ動きをすることは難しい。
いや……もしかしたら、催眠療法士の技法などのマニュアル自体は基本的に晴眼者のものであるからして、私の工夫したやり方ではクライアントさんへの効果がどうであれ、そもそも邪道扱いで認められるものではないかもしれない(しかし、例え晴眼で同じマニュアルを見ていたとしても、結局やり方やその場その場の対応法は千差万別になるはずなのだが)。
更には、どこかに通い、所定の場所に辿り着き、セラピストとして自室ではない部屋の準備をしたりするには、どうしても何らかの工夫や他者の協力をいただく必要が出てくることだろう。
私は近未来的に、どこかで場所を借りて機材を持ち込み講座やセラピーを行うことも視野に考えたため、やはり思った。慣れない場所を独力で借り、手続きは何とかなったとしても独力でその部屋を見つけ出し、セッティングをし、その場所を使いこなすことは、難しいだろう。また、内容よりもそういうところに負荷をかければ、翌日動けなくなるだろう。
例え心身障碍を持った人に受け容れ態勢があったとしても、一緒に働くには、例え内容的にはその技量があったとしても、いろいろな意味で難しい。
まあ、よっぽど実績や名声が突出していれば、また別かもしれないが。
私が言いたいのはそういうことではなく、私は恐らく、工夫が必要なところやその都度、どうしたら補うことができるか、助けを求めることもできる(それができなければそもそもセラピストとしての自信も失わねばならないようなものだ)。
これは”健常者”と言われる世界でも、得手不得手としてやっていることではないかと思うし、この中にも自分の必要な助け、補いを発することができない人もいる。
今の社会体制が、我々のような者への補い、工夫だけを「種類の違う」ものであると位置づけていること、また、”障碍者の雇用”という一括りにすることで、社会の側に責任を持たねばならない、社会の側がその「工夫」も提案し提供しなければならない(当事者がちょっと自分で周囲とコミュニケーションをとって言えば良いだけのものであったとしても、そして本人にそれができるとしても)というような、そのために当事者それぞれの能力を見ないこと。
まあ、私自身にもまだ、他者に移動やら事務やら手を煩わせて補助していただいてまで活動できるような能力があるとは思ってはいないが。
私自身の話ではなく、能力的に社会と渡り合うことのできる可能性がある(もしくは自分で切り拓くことのできるタイプの)当事者も恐らくたくさんいるだろうに、社会体制とのちぐはぐさを、そしてお互いに非効率、不利益ではないかと感じた点を、言語化してみたかった。
そして、これを言えば極端でここまで思っているわけではないのだが、強いて言葉にするならば、人の体調や部下の心が視えずに彼らを使い物にならなくする上司もいるのに、ただ自分の定位置の椅子の位置や看板の文字を認識することができなくて何が悪いのだろう(しかも道具を使ったり、貴重ではあっても短時間の付き合いや工夫があればできるのに)と、ふと思った次第だった。