券売機の音声案内ー実践報告編/福祉・平等の”誤解”

以前、点字教室にて「駅の券売機がしゃべるの、知ってます?」と先生に教えていただいたという話を記事に書いた。ご存知でないかたはぜひ、今この部分の文字にリンクで貼ってあるのでぜひご覧ください

今回は、さっそく駅の券売機で試してきたので、その実践報告記事。

点字教室でその話を聞いた後日、偶然、点字図書館もある高田馬場駅にて、友人2人と会合。
私は、ひとりで券売機に向かったことがほとんどない。
券売機は、ほぼすべて画面での案内である上、点字などもあるのかもしれないがどうせ操作できないと思っていたし、いつまでも立ち止まって点字を読んでいたら後ろに人が並んでつかえてしまう。その上、変な操作をしておかしなことになったらパニックだ。
ICカードのチャージなども、駅員さんにお願いしていた。

友人2人とならば、周りや画面などに何かあれば教えてもらえるし、何よりひとりで手探りで闘うわけではないので、券売機を触ってみる好機だった。

そんなわけで、少々付き合って欲しいとお願いし、券売機へ。
まずは券売機とはどのような顔をしているものなのか、探り探り。
もしかしたら券売機によっても顔(レイアウト)が違うのかもしれないが、大きな画面があり、その右下あたりにテンキーがついていた。
点字教室の先生に教えてもらった通り、まず、左下のアスタリスクを押してみた。
すると、「切符を購入する場合は、1を、チャージは、2を、押してください」
おお、本当にしゃべりだした。

そして、2を押すと、「カードを入れてください」
手探りでカード挿入口を探し(慌てなければ、この挿入口にも点字表記で「かーど」と書いてある)、カードを入れると、残高を教えてくれた上で、入金額をテンキーで入れろとの指示。
今回は私は機械の音声操作を試して残高確認をしたかっただけなので、「とりけし」表記のボタンを押して終了。

この後、また別の駅でも試してみた。
すると、今度は最初にアスタリスクを押しても、何も言わない。
しかし、先生に、ここでは何も言わない可能性もある、と聞いていたので、怯まずにそのまま2を押してみると、残高を言ったか金額を入力と言ったか、とにかくしゃべってくれた。
アスタリスクを押して何も言わなかったとしても、音声操作は機能し始めているらしい。つまり、その後に1を押すか2を押すかは操作する視覚障害者が覚えている必要がある。

この時、一緒にいた友人のひとりが「いかにも晴眼者が作ったという感じだな」とぼそっとありがたくも言ってくださったのだが…
しかしながら、私は思う。
確かにこういうところではアスタリスクを押してみたところで音声で反応してくれるとありがたいが、しかし、券売機以外でも、例えば音響信号ボタンなどでも、視覚障害者用に横断歩道脇に設置してあるボタン、結局「この横断歩道に音響信号ボタンが設置されているのか否か」からして、視覚障害当事者にはわからないものであったり、例えボタンまで行きついて発見しても、そのボタンがどうやったら反応するのかわからなかったり、そのボタンが夜間押ボタンなのか音響信号なのか判別できなかったり…。しかし、だからといって、「こちら音響信号ボタンです、こちら音響信号ボタンです」などと常に横断歩道脇で機械が騒いでいても、それは騒音になってしまうだけだし、更には他のところで周囲の音情報を頼りにしている視覚障害者当事者にもうるさいものとなってしまいかねない。
かといって、全部どこかで点字表記で説明板が貼ってあったとしても、視覚障害者はその点字表記板を見つけることができない。(そして見つけたところで、視覚障害当事者の点字識字率は低く、読める人も少ない)

つまり、「晴眼者が晴眼者目線で作った」以前に、人間社会自体がそもそも「晴眼者」の社会なのだ。
晴眼者が基準の社会なので、視覚障害者仕様にはなりようがない。これがもし、みんながみんな尺取り虫のように手探り社会であったら、音声案内ですらなく他の方法が考えられているかもしれないと思う。
晴眼者たちが視覚障害者のサポートをしてくれようと作り出してくれたからこそ、折り合いをつけ擦り合わせをしたところでの、「適宜の音声案内」なのだ。だから、全部が全部案内されるわけではない。しかしその代わり、一度やり方さえ晴眼者に教えてもらい覚えれば、視覚障害当事者でもひとりで使えるようになる。

…私は思う。これは、郵便などでもそうなのだが、例えば、点字図書館で用具を購入した場合、郵便物はまず墨字で「点字用郵便」と書いてある他、当然ながら墨字で宛先、送付元が書いてある。点字は表記は、「べつくち あり」だとか、そんなものである。宛先も送付元も点字表記はされていない。
ただせめて、点字が封筒にあるという自体で、「ああそういえば用具ショップからそろそろ届くころだな、ということはこれは点字図書館からかな」などと判別するのだ。
しかしながら、だからといって、晴眼者世界の晴眼者達が使っている郵便物に書いてある墨字が全部点字化され表記されていたら、逆に余分な情報が多すぎて、読めたものではない。例え点字を素早く読むことができても、点字は視覚で一瞬に広範囲を見て情報を取捨選択できるわけではなく、片っ端から触って行って全部を読んでから何が必要な情報か判断する他ないツールであるため、結局、墨字を全部点字化されていたら誰からの郵便か中身は何かなど、必要な情報を見逃してしまうのだ。
音声も同じである。音声も、視覚のようにいっぺん一瞬で情報を読み取れるわけではなく、全部流して聞くしか方法がないため、結局膨大な時間がかかる上に読み上げ量が多すぎると必要な情報は取り逃してしまったりする。

電話の音声案内などだけでも経験があるのではなかろうか。
音声案内で「〇〇の場合は1を、△△の場合は2を、…」などと読み上げ続け、選択項目が多すぎるとわけがわからなくなってしまう。

まあ…この券売機の場合は確かに、「切符購入は1を、チャージは2を」くらいは言ってくれるとありがたいとは思うが…。

さて、話を戻して。
この後、友人が切符を買うとおっしゃったので、せっかくなので「1」を押して音声案内で試させていただいた。
この時この機械では、「1」を押すと、しばらく何も言わず、おかしいと思いもう一度「1」を押すと、「数字を入力してください」と言った。
何の数字だ?!と思いながら友人たちと「数字っていうことは大人ひとりってことかな?」との意見でもう一度「1」を押してみると、
「それは扱っておりません」というような音声。訳が分からずひとまず取り消し、またアスタリスク、1を押すと、また何も言わず。
もう一度1を押すと、何も言わないが、しかしボタンが押された「ピッ」という音はする。ということは、きっと何か選んだことになったのだ、きっと「大人1人」を押したことになったのかもしれないと、では次「数字を入力してください」では金額を入力してみよう、と、金額を入力すると、どうやら「お金を入れてください」となり、無事購入完了。

どうやらこの券売機は、電子画面ではなくテンキーでも動くが、いちいち何の操作がされたかは説明してはくれないようだった。


しかし、私は、携帯電話の操作でしょっちゅうこういう体験をしている。
携帯電話の音声案内も、携帯画面が切り替わるのが遅かったり(そもそも音声操作をONにしているとそれだけで重くなるし電池の減りも早くなる)、画面が反応しなかったときなど当然ながら何も言わないし、画面が切り替わっている最中など、操作過程で画面が移り変わっている説明も何もない。そして突然広告が出て来たりもする。そういうときにも広告が出てきたことは読み上げず説明してくれず、そこで何か触ってしまっておかしな画面になって迷子になり操作を続けられなくなるようなことはもうしょっちゅうある。

操作手順さえ覚えていれば自分で操作できる、というだけで、何とありがたいことか。

ちなみに、今回触ったふたつの券売機、これは、テンキーの横あたりに点字板があり、3、4行程度の説明文があった。時間をかけて読んでみたところによると、「すーじの ひだりしたの きーを おして そうさ かいし」だか、そんな感じだったような気がする。
あと1文くらいあったかもしれないが、説明と言えばそんなものなのだ。
しかしながら、この点字説明の存在も、私は隣にいた友人に「あ、ここ何か書いてあるよ」と触らせて教えてくれたことでわかった。券売機はそもそも電子画面やらいろいろなボタンやら、間違って押してしまったら怖い上、そんなに時間をかけられるものでないのでいちいち全面探って説明があるかなど調べない。そして、点字板に説明があったとしても、晴眼者たちの墨字のように事細かに説明されても、全部五十音(ひらがな同様)の上に分量が多すぎて、しかも文字の色や大きさやフォントを変えてわかりやすくなっていたり図を使ったりもできないため、だらだらだらだらと点字が羅列されるだけになってしまい、結局、必要な説明や必要な情報をその中から必要なだけ探り取得することは不可能なのだ。

目が見える見えないとかいう話ではなく、そもそもが
「目で取得する情報をメイン、大部分がそのような方法をとる」ように作られた社会において、
視覚情報を取得できない(その方法を使って生活していない種族)というのは、そういうことなのである。

また、しばしばであるが、視覚障害当事者と、視覚障害を深く理解しようとして視覚障害者目線で物を見ようとしてくれる晴眼者、と、晴眼者、は、やはり違う、当事者には当事者にしかわからないことがあり、視覚障害者には視覚障害者の世界がある、というような言われ方をすることがある。
言語化は非常に難しいが、「視覚障害者目線で物を見ようとしてくれているがご自身は普段視覚情報に頼って生活しておられる晴眼者」は、視覚障害者目線で物を見ようとしてくれるがゆえに「これでは視覚障害者が生活しにくい、全部音声化、全部点字化すればいいのにできればいいのに」と言ってくださるが、ああ、そもそも視覚障害者でなければわからない世界、事情というのは、そういうところなのかもしれないな、と、ふと思った出来事でもあった。
「晴眼者によって作られた晴眼者用社会ベースの中で、晴眼者社会に何とか少しでも適応するために作られた福祉の道具やら機械やら」使ったところで、それは結局「晴眼者に(しかもできるだけ晴眼者のやり方に)ついていくため」のものでありながら「晴眼者についていくことができるわけはなく」、確かに晴眼者社会の情報の一部は音声や点字で補うことは可能かもしれない、だが、「一部を補えているんだから全部それにしてしまえばいいじゃないか」とされたところで、逆に情報が取得できなくなってしまう、という事情は、とてつもなく言語化しにくく、当事者にしかわかり得ない部分もあるのかもしれない。
点字や音声があれば「晴眼者社会」についていけるか、同等(今の社会で流行っているような意味合いで言われる「平等」)に何でもできるかというとそうではなく、結局、これは「晴眼者が視覚優位に情報(晴眼者同士の暗号)を流通させる世の中」という、これがベースだというところ。
もし、人間全員が視覚情報を後回しにし例えば音声情報や嗅覚情報を頼りに生きる動物であったらば、今の社会がそもそもこういうシステムになっていないのだ。
点字や音声は、あくまで「晴眼者と同じように同じことができるようになるためのツール」ではないのである。

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