視覚障害者の嬉しいと感じた配慮―そばの難しさ

さて。タイトルを見て、「そば」とは何のことかと思いましたか?

ちなみに、「点字」という言語(文字)は、表音文字で、文章はすべて五十音表記で表されます。
つまり、意味表記(漢字表記)がない分、英語などと同じように単語と単語の間をわかちがきしながら、「音がわかる文字記号」がつづられます。例えば、
「今日は良い天気ですね。」であれば、
「きょーわ いい てんきですね。」という音として表現されるように、これを点字で表記されるということです。
例えば、今回のタイトルも…
「しかく しょーがいしゃの うれしいと かんじた はいりょーそばの むずかしさ」となります。

さて、「そば」。点字でなくとも、今回のタイトルでもひらがなで表記してありますので、「え?そばって?傍?蕎麦?どのそば?」と思われたかたも多いのではないかと思います。
点字では、このような感覚(どの漢字のその発音の語かがわからない、同音異義語の区別がつかない)に良く陥ります。

…なんてお話はまた今度にしまして、今回、私がお話したかった場面は、「蕎麦」蕎麦屋での出来事です。


久しぶりに会った友人と、蕎麦屋へ行った時のこと。
品書きを教えてもらい、気になる品物を頼んでみたら、なんと、盆の上にざるに乗ったそばと、つけるための汁の入った湯飲みのような器、その上に小皿に恐らくネギとわさびだったろうか、乗っていた。

この形式の蕎麦は初挑戦。
いや、まずは、盆の中を手探りしてみて、そういうタイプの蕎麦だと気づくことができただけでも私にとってはずいぶんな進歩。

その後、とりあえずネギ(と、どうやらわさびも乗っていた)の皿をつゆの中にひっくり返して全部入れて、箸でそばをつつき、つまんで、上にひっぱってみる。
思いっきり長く連なっているので、とりあえず、上のほうをつまんだままの箸をつゆの中につけ込み、入りきらないそばを箸と、結局はつゆ入れを支えているほうの指も動員してそばをひたすら手繰って入れる…

この同席の友人、ただただフラットに「その人それぞれにできること・できないことがある」感覚はお持ちのかた。そして、純粋な好奇心で接してくれるかたでもある。

とりあえず私自身はこれが難しいも難しくないもよくわからず、とりあえず格闘していると、そのうち、隣から声援。
「あ、それ、結構長い、あ、それは難しいかも、いったん戻して別のところからとったほうがいいかもっ。」
「あ、それ難関だー!もっと上に持ち上げたほうがいいよきっと。あ、もっと、もっと!」
「よし、やった入った入ったっ」

まるでスポーツ観戦である。
思い切り笑って、私自身ですらもこれは難しいのか、いや、通常難しくないはずなのだから黙って工夫しながら乗り切ることができておらねばとどこかで感じてしまっているところを、「いや、それ難しいよね!」とはっきり言いながら私の状況状態では難しいことが当たり前だという目線で、一緒にその「もの」に向き合い立ち向かおうとしてくれる。
「見ていて面白い」とまではっきり言ってくれた。
何というのだろうか、もしかしたら何よりも、「そのこと自体」を全部、ごく当たり前のように話題にしそれ自体を一緒に楽しんでくれるからだろうか。(例えば「ああ、見えていないから大変だろうな」という感覚で食べるのが遅いことや苦労しているのを見ていながらも見ないふりをして・自分はあっという間に食べ終わって待っていてもこちらに気を遣わせないように黙ったまままるで”一般人””晴眼者同士だったらこうだもんな”というように別の話題でごまかす、”見てないから大丈夫ですよ”と言わんばかり丸出しのような対応ではなく、という意味である。)

言語化することが非常に難しいのだが、黙って気を遣って見られているより、純朴な興味と「自分がこうだったら…」というような感覚を持ちながらある種の臨場感とともにスポーツ観戦のごとく実況中継してくれたり「こうしたらいいのでは?あ、そうしたほうがいいかもっ」と、まるでスポーツ観戦の画面の中の選手に「行けー」「やった!!すごい!!」などと声をかけているがごとくに一喜一憂してくれるほうが、逆に気が楽になる。
いらぬ緊張を感じていること自体が馬鹿らしくなり、吹っ切れるというのか開き直るというのか、それと同時に相手がどんな感覚で私の状況を感じてその場にいるかもわかる。そして私の状況とともに(私の状況に気を遣ったり心配したり待っていたりするのではなくて)楽しんでいるということがわかることでも、気が楽になるしこちらも遠慮なく蕎麦との格闘に集中できる。
もちろん、その友人とは信頼関係のある間柄でもあるわけであるが。

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