私たち(器)の視覚状態の現状―特に事務作業と夜道編
私たちは、長年、器の身体状態(その内でも特に視覚状態)を、ずいぶんと周囲にごまかし、更には解離を駆使して光や動くものに敏感な部分などを殊に解離をして逆にあまり感じないようにすることとごまかしを組み合わせて、周囲と同じことが同じようにできる「ふり」をしてきた。
そして、あまりに幼い頃からであったため、そうしてきていたことすら近年まで自分たちですらわからないほどに、自分たちをも周囲をもだまし続けてきた。
解離自体の必要性をだんだんと握りしめずに済むようになり、解離をだんだんと手放すことができるようになってからは、ずいぶんと器の身体に無理をかけずに済むようになった。そして、言語化することは非常に難しいのだが、今までの30年以上どれほど負荷をかけてきたかということも、感じるようになった。
私たちがもし解離をしていなかったら、もしくは養護学校に入っていたら、身体の状態はもしかしたら今と近い状態であったのかもしれない。
今となっては何をどう証明しようもないことだが、しかしながら、我々の自覚と身体状態としては、解離を手放すほど身体に負荷をかけなくて済むようになり、しかしながら外部(外側)から見るとある意味、社会的障碍があることが”目に見える”ようになってきた。
それまでは、私たちの側が必死になってせめてグレーゾーンを演じ続け、日常に何か違和感を感じられてもそれが別の理由であるかのようにひたすら誤魔化してきたのだから。
しかし、今、私たち自身としては随分と楽になり体調も崩さなくなってきていることや、精神的にも安定していること、可能性に制限をかけることをしなくなってきたこと、五感や感覚をちゃんと感じて自覚し口にも出すことができるようになってきたこと、ごく個人的にも…白杖を使い始めてみてからというもの、どれほど楽になり安心感が増したか、そして言語表現できないがなぜだか元のかつての生き方には戻りたくないと強烈に感じるということなども、私たちにとってはこれら全てが証明だ。
しかし、その我々も、まだ解離を駆使する場面はある。
身体の負荷とのバランスを見ながら、今自分たちの感じている必要性に応じて。やはり、特に視覚機能に関しては。
そして、視覚認識に関しての角度から記してみると、私たちは、まだ、解離を使ってかつて今までのように多少、光や動体に対する感覚を麻痺させるような感じで、ゆっくりとではあるが、そして時間制限はあるが、その場における文字や物の認識などを可能にすることもできている。
私たちはやはり事務作業にはある程度時間を割く必要があるため、それでも今や、
PCの画面の輝度は100から10まで落とし(実はこれでも眩しさは感じるが、これ以上落とすと逆に色のコントラストが弱くなったり周りとの明るさの加減で結局識別できなくなってしまう)、その上で数種の遮光グラスを使い分け、文字色や背景色の反転(白黒反転)や拡大、読み上げ機能も使い分け、事務処理内容としても大分工夫を凝らしている。その上でできるだけ休憩を挟み(いずれにせよ刺激が飽和に達してしまうと勝手に閉眼反応が起こるため、意図しておかないとタイミングが悪ければ何もできなくなってしまう)、しかも事務作業は午前中早い時間に回した上で時間帯を区切る。
その上で、動くものは視界が飛ぶ(これは実際幼い時から自覚もあったことであった)ため、例えばPC画面のスクロールなどは目(認識)がおかしくなるのでゆっくりと毎回いちいち止めながら行う。動いている時は見ない(閉眼反応もいずれにせよ起こるのだが)。
何事も、止まった状態になったものを、じっとゆっくりと視認する。
今でこそやっと自覚して言うことができるようになってきたが、見ること自体に、そもそもかなりの集中力を要する。そのために他の五感に意識を回すことが難しくなってもいる。
ついでに、「見たいもの」に集中せねばならないのでそもそも見るべきもの以外は視野に入っていない(認識できていない)のだが、そうでなくともどうやら視野も周りの人たちより狭いらしい…という話だ。幼い頃から視野に狭窄傾向があるようなことは言われてもいた。
こうして文字を打っているときも、カーソル(文字)の部分が動いているため、ほとんどブラインドタッチで打ち込む。
動画はほとんど認識できていない。少々無理してがんばってその場では認識できるようにしてみても、見た後でほとんど視覚情報の記憶がない。
ここは実際認識できているかいないかはともかく、解離も絡んでいるのかもしれない。なぜなら、特に私は交代人格時代から、他の交代人格達が見た(つもりになっていた)ものも、彼らが例え自覚ほど見えていなかったとしても、私には更にそれ以上に視覚情報の記憶が共有できず、入ってこなかった。
今も、午前中になんとか視覚認識を最低限に働かせながら作業をしていても、視覚的情報としての記憶はほとんどあとで想起できない。
…そもそも、本当に必要最低限の視覚情報しか取り入れていないのかもしれないが。
今も、突如、閉眼反応が起こり、しばらくコーヒーを飲みながら休憩していた。このようなことが突然しばしば起こる。これは、いつでも。
特にこのツール(note)は文字色と背景色の反転ができず、白地の画面がどうしても目の前にずっとある(ちなみに文字は本当にゆっくり工夫して確認しないと、多くの人が普通に画面を見て文字を見る感覚で見ると、白い光に包まれた細い黒文字はほとんど光で飛んでしまう。時に今どこに打ち込んでいるかすら、ゆっくりと探すこともある)。そのため、これはnoteに限らないが、別の慣れた場所に打ち込んで、そこからコピーし移すような工夫をすることもある。
また、文字を打ち込んでいると、カーソルが点滅しているので、油断をするとその点滅を見た瞬間閉眼反応が起こってしまうこともある。
ちなみにこの機会に言い訳をしておくと、そのようなため、私は打ち込んだ文章をほとんど確認することができないまま記事を出してしまっていることが多い。
スクロールをして画面を動かして移動するなど更に苦痛であるため、ほとんどしない。
しばしば、拡大をした方が認識しやすいこともあるが、拡大をするとその分移動(動き)が必要になり、あっという間に目と頭が混乱してしまうため、拡大は拡大で実は私は苦手である。
さて、そしてそんなことが、移動中、外出中でも起こる。
ちなみに事務作業以外の日常生活は、現状、ほとんど閉眼状態になっている。
少し前までは、隣室の住人と共用部で会った時などには、視覚認識はほとんど働いていないままそれでも目だけは開けることを試みていたが、それでも知らなければ違和感はあるし、今では同居の2人も事情を知っているため、気にせず生活しているし、共用部に置いてある調味料や道具には遠慮なく点字テープで目印をつけている。
棚に記されている大きな文字であっても、今やさり気なく聞くこともできるようになった。
外出時、外を歩いているときは、とにかく常に光の明暗の差がかなり激しい刺激として入ってくるため、遮光グラスは着用するようになった。
そもそも、例え解離を極力駆使していたとしても、今はどちらにせよ視覚刺激(光や動き)自体が、直結して眼痛・頭痛となる。
外出時は、そもそも自分が動いている状態であるので視界が動く、その時点で視覚認識はなかなか難しいのだが、その上でしょっちゅう閉眼反応が起こっている。そのため、下手に視界に何かちらちらと感じて一生懸命認識しようと気を取られたりすると危険なため、基本的に閉眼状態でいることの方が断然多い。その方が全身をアンテナにして集中することができるため、実質全盲状態ではあるが、いろいろなことに対応もしやすいし全身にアンテナを張って全集中をしながらもゆったりと構えながら動くことができる。もちろん…これを、白杖を使わなかった時期(…実は私自身使おうとしなかったところも多分にあるのだが…)は、交代人格達までをも駆使してひたすら無理をしていたわけだ。
私は、今、毎週1回は、夜道を歩く場面がある。
私にとっては夜であろうが昼であろうがただひたすら眩しいだけなのだが、解離状態を駆使した場合、そして…
補足して記してみると、今その週1回の夜道は、この器の実家のそばである。今の居宅から実家までは徒歩3~4分の距離であるため、文字通り目を瞑っていても行き来できる。
ついでに、実家の人たちには長年一番ごまかしてきてしまったこともあり、未だに解離状態は濃くなる。そして実家への行き来には、今や白杖は鞄には入れているが、出して使ってはいない(閉眼反応は起こるし、そうでなくとも光の不意打ちは危険なので遮光グラスは着用する)。
そして、その解離状態が濃い状態の時、夜道の感覚を説明できたため、それを今記してみようと思う。
これは実は交代人格達が本当に全盛期で(つまり交代人格達それぞれに視覚状態も違い、視覚に困難があるようには見せなかった人格は自分でも見えていると自覚をしていた)あったときからそうだったのだが、
夜はとにかく眩しい。
我々は、羞明の他、夜盲もあるのだろうと思う。
光に弱いのだから暗いところなら見えるのかと思われながらも、暗ければ暗いでどうも人より真っ暗に感じていて識別できていないようだ。
ではなぜ夜が眩しいのか。
我々は、光の落差にとにかく強烈な激しさを感じる。
夜は昼と違い、街灯やら自転車、車のライトやら、店の看板や店内から漏れ出る照明やら、ピンポイントの、強烈な、武器かとも思うような光…光線、光の弾丸に溢れている。
街灯の光ひとつであっても、私たちにとっては、その光が縦横無尽の無数に飛び散る光のように視界を舞い、それだけで、例え解離を駆使して視覚認識を働かせている時であっても、視界に在るものは識別できなくなる。
白地背景に黒文字の細い線が飛んでしまうのと同じだ。多くの人は、その光があるがゆえに光の近くにあるものが見えやすくなるのかもしれないが、その光の強烈さ(落差)のために、見るべきものが光に負けて消えてしまう。
歩道脇の店から漏れ出てくる光や、看板の光で、多くの人はその辺りの歩道自体が明るくなって見えやすくなるのかもしれない。
我々の場合は、光はとにかく眩むほど眩しいが、だからといって歩道は明るくも見えやすくもならない。視覚認識を働かせている時に見ても、歩道は逆に暗くなる(落差を大きく感じて、他の人が見ているより恐らく暗くなって逆に見えにくくなっている)。
この記事を書こうとふと思ったきっかけだったのだが。
先日もその短い夜道を歩いていて(いや、実は日が落ちる前の夕方にも同じことがあったのだが)、前方から自転車がライトをつけて走ってくることがある。
このライトは、自転車にとっては注意喚起であり、わかりやすくなるためにつけているものであるわけだが、我々の場合、下手に目を開けて歩いている時にこれを食らうと、その瞬間、強烈に全身を貫かれたような衝撃が走り閉眼反応が起こってしまうので、少し油断して予期せずに歩いていると、その瞬間、動きが止まってしまう。
これはちなみに、日中、日差しのある日に駅から道に出た時や日陰から出たとき、横断歩道の白線に当たった光の跳ね返りを食らった時などもそうである。
これらは、ただでさえ、既に閉眼状態で歩いていたとしても、強烈に眩しい。
我々の場合、この注意喚起の光で、視界を失う。
わかりやすいために光をつけてくれているのに、私たちはどうしても、走ってくるその真ん前で結局瞬間動けなくなってしまい、閉眼した目(まあ、遮光グラスなので相手には気付かれないが)の前に更に手を翳して光を避けながら、結局自転車の側から避けてくれるのを、ゆっくりそろそろと歩きながら(または方向感覚を失わないために完全に止まって)待つしかない、ということに、何やら妙な逆説的な気分を味わっていた。
そのため私は、夜道は特に、最初から閉眼状態にしておかなければ、逆に危険が大きい。
ついでに、私の居宅は、家の前に自動販売機がある。これがまた大きな大きな宇宙船のような光の塊で、眩しい。
だが、この光が当たって全身がびくりとなって、痛みを感じながら視界はもとより全身のアンテナが利きづらくなると、これを目印に家の階段を探ることができる。(どの道歩数と足裏で感じる地面の傾き加減でだいたいの位置は記憶しているのだが)
なかなか皮肉な目印である。
だんだんと私自身で人間関係を広げていることもあるがここ最近、視覚状態を尋ねていただくことが出てきているため、こんな機会にも小出しにしてみようと、今回は一場面的、一面的な角度ではあるが、言語化してみようかと思った。
大抵、「視覚」に異常があると、「目」に問題があると思われてしまう。
そして、それは大抵のイメージいわゆる(医療的にいわれる意味での)「視力」に直結する。
つまり、どれくらい見えているのか、ぼやけているのかとか、細かい文字ははっきり見えるのか、大きければ見えるのか、というような捉え方である。
こういう捉え方をされると、我々は無理をせざるを得なくなる。
そして、そこが説明の一番難点なのだということも気付いてきた。更には私たち自身そのような視点、角度、捉え方から説明しようとしていて、だから説明不能に陥っていたのだと。
この器の場合、「脳認識」の問題であり、更には「視覚刺激(光)」自体が過剰な痛みにもなる刺激となる。
これが視力の問題の人でも、一生懸命がんばって目を使い続けると体調不良や二次障害や失明に直結する人たちもいる。
私たちの場合も、「視覚認識機能を使うこと」自体が、かなりの時間がかかり、労力を使い、他の頭や五感のはたらきを著しく妨げ、身体的な不調や日常への支障に直結してしまうのだという説明の仕方になるのだと、やっと気づいてきた。