視覚障害者の五感の使い方―ちょっといつもと体調が違う時

視覚障害者が、これはもちろん私個人を例としてお話しているものではありますが、視機能に依存することができないという状態では、日常の身のまわりや街中など、「外側の情報」を、どうやって入手して物事を判断しているのか、というお話を、昨日まで3連続で記事にしてきました。

視覚障害者は視覚がない代わりに何を使っているのか、また、私の五感のフル活用のしかたについては、以下にもリンクで載せますのでこの3記事を読んでください。今日の内容はその情報を前提として、お話したいことです。


そんなわけで、私たち、日常に視機能情報がない場合は、他の全身全霊の(しかも意識で自覚することも難しいありとあらゆる)五感+予測や統合的な情報処理(頭の回転)や応用的な考え方を全部全部全部ひっくるめ、身の周りの情報、歩いている時の街中の情報など、察知して、処理して、それにより判断して行動する、ということをしています。

だから、例えば道を歩いている中で、視覚障害者が道の真ん中で突然ふっと向きを変えて曲がり角をうまく曲がったり、突然ぴたっと立ち止まって、くるりと向きを変えて手探りで探してもいないお店の位置がわかったりして、あなたは「すごい!」と驚くことがあるかもしれません。が、もちろん、これは、超能力でも何でもありません。
あなたにとっては大して意味を感じていないがゆえに存在に気付いてすらいない目印を、ただ、私たちはその目印を目印とするためにわざわざ探して知っていて、その目印を見つけることで、周囲の状況を判別・判断しているだけです。


では、私たちが、ほーんの少し、いつもと体調が違うとき、少しいつもよりも疲れているとき、緊張しているとき、ましてや、いつもよりちょっと体調が悪いときや生理中などは、どうなると思いますか?


ヒトが日常で外界の情報を取得して認識するための8割は、「視覚」から来ると言われています。

ちょっと違う角度から言えば、「視覚」で普段から情報を取得して物事を認識・判断している人は、無自覚に「視覚」に依存しているために、ある程度他の感覚器官で受け取っている情報は無視しても、生活することができます。
(前回の記事で言えば、だから、視覚にいつの間にか依存している人は、他の感覚器官で実は受け取っている感覚に、気付くこと・自覚することからしてできなくなってきます。現代の日本社会はその上にどんどんどんどん「視覚」だけ物事を全部把握できるような方法・方向になっていますから、なおさら、視覚以外の自分自身の身体の感覚に気付かなくなっていっています。)

「視覚」というのは、顕在意識の感覚なのです。
(それでも、その「視覚情報」ですらも、実は顕在意識ではその1割しか認識・自覚していないのだということも、付け加えておきます。つまり、逆の言い方で言えば、せめて「視覚」は、顕在意識でも意識しやすい感覚なのです。)

他の感覚は、割合の違いこそありますが、ほとんどが、潜在意識がそのほとんどを支配している感覚です。


そのため、視覚で周囲の情報をキャッチしている人は、多少、「目」以外の身体の部位の調子が悪くても、家の中を歩き回るとか、ちょっとがんばって仕事に行くとか、できているでしょう。


それが、視覚の機能がない場合は、御幣はありますがたった一言で言ってしまうなら、「全身全霊がすべて連携して一体化してその全部が視覚」というようなものなのです。

というのか、「周囲の情報・状況理解や判断」には、全身全霊の五感の連携という、まるで何十人何百人の大規模な大サーカスの見事なる成功によって、初めて成り立っているのです。

つまり、そのサーカス団員たちの数名でも1人でも、状態・調子がいつもと異なっていると、サーカス全体が狂います。
タイミングやバランスも全部総崩れとなってしまうのです。
その上に、その中でも指揮力や大きい目立つ役割をする「嗅覚」などが、例えば風邪をひいているなどで利かなかったら。
耳の聞こえ方など、ごくごく僅かに違うだけでも、いや、例えば聴覚自体には何ともなくとも聴覚情報のキャッチに必要な集中力を発揮する部分のサーカスが崩れていたら、それだけで聴覚情報は一気に落ち、多くの情報を取りこぼして、「視覚障害者がわかるために設置されている音響信号」さえ聞き漏らしてしまうこともあります。

私は、前日に少し無理をしてしまったときなど、翌日に響いて、「何だか全体的に言語化できないけれど体調がおかしい」という程度の状態であっても、家の中、部屋の扉を出て数メートルのトイレに行くことすら、まるで普段玄関から出て10分ほど歩く地元の駅に出発する、というほどの覚悟と勢いを決めねば、行くことができないことも実はなかなか良くあります。

「自分の身体全体」を的確緻密にコントロールして身体で物理的に探って物の位置や距離などを判断するわけなので、ほんの僅かに体調のバランスに異変があるだけで、自分の家や自分の部屋の中ですらも、突然、初めてではないけれどもたまにしか行かないため勝手がまだ慣れていないホテルかどこかの部屋にいるかのような状態に陥るのです。

そんな状態ですので、これで更に「外出時」は、大変なことです。
調子が良いときなら歩数でだいたい覚えているくらいに毎日毎日行き来する慣れに慣れ切った場所でも、突然まるで初めての未開の地に迷い込んだかのごとく、迷子になりますし危険に突っ込みます。

ちなみに…
眼球使用困難症で光(光子刺激)を受けると心身にダメージがありただでさえ日々、夕方も近くなると動けなくなるほどのダメージ・身体症状が蓄積する私は、通常でもこれである上に、体調に異変があるときは、どんなに少なくとも眼痛・頭痛・吐き気・眩暈や平衡機能異常・不安神経症のような症状が更に追加されているようなことになります。
その上、目を閉じていて完全にまぶたを塞いで光が極力入らないような工夫をしていても、瞼の中で強い光を感じて更に強烈な拒否反応症状に見舞われていることもあります。
(そんな状態でも、今の社会では福祉にも、医療にも、国にも「障害」者とすら認定されないのだということも、一言だけここで付け加えておかせてください。)


ですので、視覚で普段から生活されているかたがたには、
別に目や足以外の部位のちょっとした良くある不調だろう、ちょっと風邪気味なだけだろう、生理なんて毎月あるんだろう、仕事の行き帰りなんか毎日通っているのだから慣れに慣れていて大丈夫だろう。
話しかけても普通に会話できているし、寧ろ元気そうに見えるしひとりで大丈夫だろう。
…と、思うかもしれません。

しかし、実はこれが、上記のような状態なのです。
これは実例ですが、私は普段は、白杖でわざわざ建物の角を沿わせて見つけたりする前に、大抵初めての場所でも空気の流れや音の感覚で曲がり角に気付いていることが多いです。が、実家のマンションの中の場所で、壁際に白杖を沿わせて歩いていて、壁沿いの足元の床から飾り用のライトが上に向かって照らしているところがあります。そこで、右側の壁がいきなり途切れ、曲がり角が出現するので、白杖がそこに来てすぽんっと壁がなくなればわからないはずはないのですが、下からの光刺激が私の心身にダメージを与えているためか、いくら慣れてもこの曲がり角、気付くことができず、通り過ぎてしまうことがあります。(この時、私は遮光グラスに光をよほど通さない工夫もしているため、私自身の意識の自覚としては、そんなに強い光を感じているとも気付いていない、平常時と同じようなつもりであったりすらします。)

そう。実は、本人ですら、いつもより感覚が働いていなくて周囲の情報を取得できておらず、危険につっこんでいることに気付いていないことすら、多いです。


そういうとき、極端に言えばもはや例え僅か1歩、2歩の同行のお手伝いでも、本当に天の助けのように感じます。

例え慣れていそうに見えても、いつもひとりで全然問題ないところを見かけるけど、というような場合であっても、ぜひ、一言、気軽なコミュニケーションくらいのつもりでのお声がけ、大変、大変ありがたく、嬉しく思います。

改めて、いつもあたたかいお見守り、ありがとうございます。
日々、あたたかいお見守りを感じているからこそこうして、そのお見守りくださる中での、お見守りくださるかたがたの中にあるかもしれないもやもやや不安や躊躇やご興味の払しょくや穴埋めになるかもしれないと思う情報を、共有させていただくこともできます。
今後とも、あたたかい輪を広げながら、この同じ空のもと、共生していきたいと感じていることができています。
今後ともよろしくお願いいたします。


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