ただの日常から―無意識のはからい/黒食器の利点/画像(視覚情報)の扱い方


別の、大抵、知り合い関係にしか発信されていないところでは既に載せていた(私たちの独り生活をご存知の方にちゃんと食事をしていますよというたまの報告も兼ねていたりする…)のだが、たまにはこういう記事もいいかと思い、こちらにも。
それなりに面白い話もあるので。

我々は、今、小さなシェアハウスで生活をしている。
もうすぐ2年半経とうかというあたりだ。
ここで冬を迎えたのは3回目である。

ここに来て独りで生活を始めてからというもの、なぜだか突然恒例化した行事がある。

そのうちのひとつが、これ。

ぶりと大根を煮込み、そしてなぜだか料亭で客に出すかのようなつもりになって飾り付ける。

今年はまた、先日、北海道からのお裾分けで、瑞々しい大根をいただいた。
そのため、これはせっかくだと思い、ぶりを仕入れるための冒険に…。
良い魚を扱っている店は近くにあり、ついでに、どの道、油を切らせて早めに調達する必要もあったため、それから…その数日前にえいやっと買い出しという冒険体験もしていたからか、比較的迷い抜かず(部屋を出るまでにそれなりに紆余曲折はしたものの…)、飛び出すことができた。

今年は、ぶり、大根、生姜の他、春菊・大葉・長葱も調達してきて、入れてみた。

私は、3年前までは、ぶり大根という料理にも調理法にもほとんど全くと言って良いほど縁がなかった。そのため、別に知っていたわけでも好物であったようなわけでもない。
(先日偶然知ったところによると、実家は、難しくてできないから苦手なのだと言っていた。)
なぜだかわからないが、私が独りでここでこの器の食事をするようになり(私は調理には興味はあれど、この器に食事をさせるとかこの器で食事をするなどということには全くの無頓着だった)、なぜだかここ3年間、冬の度に、こういうことをしている。
しかも、余程生活に支障が出ない限り買い出しをせずに済ませる私が、わざわざ鰤の切身を調達しに行ってまで。

そして、私はそもそも流行り行事にも社会の商戦にもまるで興味がなかったので、季節の行事も行わなかった。
ただし、今は商戦と結びついてしまって違いがわかりにくくなってしまっているが、しかしそもそも日本人の「身体」が、本能的に欲する、行う、要するにヒトが生き、活きるにあたっての目的のために行うこともある。季節(気温、気候)によりいつの間にか自然と装いを変えていくこともそうであるし、それが効率の良い(身体に合った)季節にデトックスを行うような食生活もそうだ。

今年、先日、ふと気付いた。
私は、年末年始に、ヒトだけが勝手に決めて使っている暦の年・月を跨ぐからと言って、別にこれといったことはしない。
食生活はしばらく七草粥か薬味粥となる。これは心身のデトックス期間となっており、これも独りで生活するようになってから恒例となりつつある(それまでは一切そんな習慣はなく、実家にも「よくやるなあ…」という感覚を持たれているようだ。いつの間にか自然と、感謝と心地良さを以てこれが楽だと行われているものであるのだが)。
だからもしかしたら、正月料理の代わりのようなことを本能的に行っているのかもしれない、と、気付いた。
強いて言うなら、精神的なデトックスとでもいうのだろうか。しかも、最近、年の終わりが近いと自覚したところでもあった。別にこれといったことはしなくとも頭の上での区切りとしては利用しているので、24年までにこれを終わらせよう、24年からこれをしよう、などというものくらいはある。これは、自己整理のための利用だ。暦の変わり目はそのためにあるのだから。

だから、身体が心のデトックスの意味で、行っているのかもしれない。
旬のものを効率良く摂る目的ともなる。

潜在意識(身体)と繋がり、委ねて任せてしまうようになると、このようなことがいつの間にか自然と起きている。

ついでに、私はここの記事で良く書くが、人は必ずどんな僅か小さな言動行動であっても、目的があって行っている。しかし、それは顕在意識の自覚にあがらない潜在意識(の中でも敢えていえば前意識的部分、敢えて無理やり浅い深いで表現すればそこまで深くない部分)でのプログラムが発動して、その目的に向かっているため、顕在意識では大抵気付くことができない。
そのために、顕在意識では何か違うような気がするのに自分が勝手にいつもそうしてしまうように感じることが起こったりまたこうなった(自分がと思おうが周りがこうだからそのせいだと思おうが)と感じたりすることが起こる。
また、一方で、なぜだか顕在意識では理由がわからない(気付けない)のに、今これをしなければ、とか、いつもと違う道を通ろう、という衝動に駆られ(この衝動自体にも実は気付かず「何となく」でやっている顕在意識の方がどうやら多いようだが…)、実際そうすると、もしそれをしていなかったら/いつもと同じ道を通っていたら、事件事故に巻き込まれていた……などという、自分が救われる体験が起こることもある。

潜在意識と繋がり委ねて任せるようになっていると、深い潜在意識部分で起こる本来の導きを日頃から受けるようになる。…というより、なぜなら日頃からそれに委ね任せているだけであるからだ。
顕在意識や、”顕在意識のための”プログラムが、邪魔をしていないというだけの話だ。

今回、顕在意識ではいろいろな理由を勝手につけようがつけまいが、比較的すぐに外に出た。
そして、本当はまた図書館への用もあったから図書館の近くの店にしようかと顕在意識では画策していたのだが、ふと、図書館の方を別日にした。
そしてチラシなどの情報も何もない店に行くと(そもそも鰤の切身があるかすらわからなかった)、鰤の切身が並んでおり、しかもタイムサービスというシールが。

そして、私は品定めをする時はいつもそうであるが、野菜であれ大抵何であれ、私は表面的な五感である視覚からはほとんどその善し悪しの判断はできない(情報を得ることができない)が、手にとった時、”今、これを仕入れることが必要であるか”どうかが、”潜在意識”の感覚でわかる。
実はそれが目当てでこの店に来た(と顕在意識では思っていた)にも拘わらず、そしてその商品があったにも拘わらず、手に取った時それが必要でなかった、この店に来たこと自体が何か別の意味があった、などというときもある。

これらのような潜在意識のはからいも、ありがたいものである。
(……当然ながら、表面的に目当ての商品がタイムサービス品だったりすれば潜在意識のGoサインである、という目に見える表面の判断基準の話では、必ずしもないが。ある種の世界では良くこういうことを目に見える表面的な現象が基準証拠になるというようなところに置き換えてしまうから、念のために補足。)


ついでに…。
私がどうやって写真を撮っているか。
私が画面自体を扱うことができる時間帯、できない時間帯などはもちろんあるのだが、いずれにせよ画面はほとんど判別していない。
画面をこの辺りかと狙いだけつけながら「静止状態」にし、そこで辛うじて僅かな情報だけ入れて、画面の中におさまっていそうかのみ判断(色が背景と似ていたり形がはっきりしないものや良く知らないものはただ勘でしかない)している。
黒い皿を使っているが、これはこちらで生活を始めた頃、私よりも視覚に頼っているがやはり弱視の交代人格達が、調達したもの。白い皿は置いただけで周囲の色に埋もれてしまいわかりにくかったりする。黒い食器であればどちらかといえば銀色や白や茶色に近い背景の場所においても比較的コントラストがはっきりしており、しかも中身もあまり黒い食材はないので、皿の中に置くものとのコントラストも出やすく、中に物があるかどうかも、そこまで疲労感に負担をかけず識別しやすい(現段階の私はそんなところに費やしている余裕はないのでほとんど箸探りだが)。
…こういう時の盛り付けの際は、私自身、自分で見栄えを愉しむこともろくにできないのによくやるなと思うので尚更この恒例行事は不思議なのだが…、頭の中で仕上がりをイメージして、頭の中で絵を描くように端からゆっくりと置いていき(探りやすい細い箸がある。これがなければできないだろう。他にも玉杓子なども使っている)、最後になんとなく箸などで輪郭を探って良しとする。実際の見栄えは結局よくわからないので、あとで机の上で静止状態でゆっくりと確認するか(それでも私の場合は情報をうまく処理判別できないので結局よくわからず覚えてもいない)、写真を撮ったあとで、たまにこうして出す機会などあった際にまた短時間だけ使い、ゆっくりと見てみる(しかし今ここで写真を載せて、文章を書いている今で既に、結局全体の輪郭程度しか判別はできておらず詳細はわかっていない上、視覚的情報はほとんど覚えていない)。

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