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『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造2』(フェルナン・ブローデル) ‐貨幣のはたらきの規則若干・紙幣と信用用具

『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造2』(フェルナン・ブローデル) ‐もいよいよ第7章「貨幣」を読んでいく。

【概要】
貨幣には階層があり欧州はあらゆる経験を有していた。
 ①信用:抵当を取って行う前貸し、大商業市場での為替手形や投機など
 ②金属貨幣:金・銀・銅
 ③現金を使わない古くからの手法:物々交換・自給自足・原始貨幣
 
貨幣は世界的規模で影響が広く、相互に関わり合っていた。比較的大量の貴金属を有していたヨーロッパは各地の経済のはたらきを自分たちに有利なように展開できることが多かったため、アメリカ大陸に勢力を伸ばした16世紀には世界を喰らい、消化し始めていた。

金属貨幣は金・銀・銅の3種があったことで多様な交換の必要に応じられた。身分や用途によっても使い分けられた。銅は③の用途に充てられ貧乏人のためのものだった。そのためどの金属が経済を支配しているかを見ることで国の経済の方向性や健康状態を知ることができた。

銅は安くて大量に存在していたが故に紙幣のような役割だったので、金と銀が議論の対象となる。生産は不安定で弾力的でもなく、その関係性は「銀と金とは敵同士の兄弟」としてずっと争われてきた。
金や銀の鉱山が見つかる度、あるいは採集技術ができるたびに変動し、そして相対的に一方が豊富になるとまた一方が「出た」。「グレシャムの法則」のいう「悪貨は良貨を駆逐する」のように金と銀は互いに良くない方の貨幣の役割を演じ、良い方を投機や蓄財に追いやった。

貨幣制度は貴金属の外への流出、そして貯蓄と蓄財という不治の病に罹っていた。絹・胡椒・香辛料・麻薬・真珠の対価に西洋が用意できる対価は金銀しかなく、ローマ帝国の時代から19世紀まで続いた。
このように貨幣は世界各地で引く手あまただったのに、貯蓄・蓄財という底なしの井戸でその動きは鈍かった。16世紀初頭では蓄財:流通の割合は3:4だったという。17−18世紀のイタリアには使用されない現金がうなっていて、それが金融の原資となった。政府も蓄財した。

このような状況だったので、計算貨幣つまり架空貨幣が必要となった。計測単位としてのものであり、現実の貨幣との計算単位が設定された。これが架空の流通を大加速させていった結果「世界中の金銭を合わせても、パリ一市の1年分の支出総額の半分に達しない」という状態になった。

一方で農民や現物支給を受ける労働者は貨幣から洩れ落ち、物々交換および自給自足経済が市場経済と対等の立場に立っていた。商品の価格は貨幣の単位で設定され、その後、価値比率に応じて商品の交換が行われた。

金属貨幣と並び、信用貨幣(紙幣)と有価証券も16世紀には流通していた。信用は時間の線上で間隔をおいた2つの金銭提供の間の交換を言う。
文書・紙幣・約束・指図は人類が文字を書けるようになって硬貨を操るようになるとすぐ使い出した。BC20世紀のバビロンでも使われていた。中国では9世紀には紙幣を使っていた。ヨーロッパはこれを13世紀に再発見したに過ぎない。ヴェネツィアでは15世紀には契約文書銀行があり、兌換や払い戻し紙幣を発行していた。イングランド銀行は寄託・振替以外に紙幣発行銀行機能を付け加えたことが新機軸だった。

これらの紙幣は貨幣回路に合流し、貸付や国債、債券、株といった形になっていった。現金での決済ではなく紙幣や為替手形で支払うことが増加した。「操作されうる」貨幣が人為的に製造されるようになり、錬金術よりも大きな経済的可能性を孕んでいた。

このあたりに近代資本主義の問題がある。古い唯名論的見方、つまり1760年以前の見方であり貨幣の流量に注意が向ける段階がある。これら貨幣の構造を裏返すと全てが信用つまり期限が来れば実体化するものとも言える。

外洋航海や印刷術のように貨幣と信用は技術であり、おのずから繁殖し永続化する。単一かつ同一の言語でもある。あらゆる個人が習得せざるえをえない。社会の人数、都市の数、そして交換が増加すると言語が複雑になっていった。物流の距離も伸び、様々な決済方法等や増えたのは加速する経済に対応するにあたっては市のシステムでは無理だったからである。他の技術と同様、需要が意向を明示してから登場した。
そしてその結果、金銭によって世界は統一されたが、1778年のエッセイストの「極度に富む民族もあればすっかり貧しくなっていく民族もありそう」という言葉やシピヨン・ド・グラモンの1620年の言葉「ギリシアの七賢人が語ったところによると、金銭は人間の血でありまた魂であって、無一文の者は生者たちのあいだに紛れ込んだ死者のようにとぼとぼ歩んでいく」のように人々は無自覚ではなかった。

【わかったこと】
読後感としては、とてつもなくどよーんとした気分になったというのが正直なところだ。貨幣つまり信用によって交換が加速し、より遠くの人々との交流が盛んになるに従い、システムはどんどん複雑化していくことで、富の格差はどんどん広がっていく。まさに現代の資本主義である。そしてはてなき蓄財も変わっていない。
では富の分配は不可能なのだろうか。マルクスのように理屈で考えた理想を掲げても、結局のところ、数千年にわたって本質的に人間は変わっていないのだから無理だ。
こうすれば良いというのはないが、今回のパートを読んで思ったことは「(物理的だけでなく)より遠くの人たちとの交換が発生すればするほどシステムは複雑になる」「複雑化すればするほど富は偏在する」ということであれば、その逆を人間の日々の暮らしつまり日常の中に組み込んでいくことである。資本主義をなくすのではなく、本来の形を今一度見つめ直そうということだ。
それは言い換えると日常性や日々の暮らしの範囲つまり地域やコミュニティでの人々の関係性の豊かさをベースとして取り戻せば、自然にコミュニティ内での人々は助け合い、それが結果として分配になると思う。
身近な例でいえば、地域の祭において経験や知恵がある人は未熟な人を指導し、力がある人は担ぎ手などを担い、お金はあるけど体力がない人は食べ物や酒の差し入れをしたりして助け合っている。お互いの不足を補い合うのが本来の経済の形であると思うのだ。

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北林 功(Isao Kitabayashi)
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