『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造2』(フェルナン・ブローデル) ‐鍵となる問題−第7章貨幣 不完全経済と不完全貨幣
『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造2』(フェルナン・ブローデル) ‐もいよいよ第7章「貨幣」を読んでいく。
【概要】
貨幣のはたらきは、おしなべて、いくらか動きの早まった交換生活にとって、道具であり、構造であり、またこれを根底から規制するものであるように見えてくる。どの土地でも貨幣はあらゆる経済的・社会的関係に組み込まれていたので、「指標」として役立つ。貨幣は古くからの技術であり渇望と注目の対象でもあり人類を驚かしてきた。貨幣は価格の唐突な変動や人間を取り巻く不可解な関係をもたらした。労働が商品となり自分自身が物となった。
貨幣経済は人々がそれを必要とし、そのための出費に耐え得た地域に限られていた。15-18世紀では広大な地域で物々交換が通則をなしていて、必要に応じて貝殻などが通貨を代用した。
遠隔通商・大規模商業資本主義により世界的規模で交換のための言語を話すことができるようになり、交換は蓄積の源泉であり、貨幣は交換に貢献した。交換が経済の方向を定めた。
■不完全経済と不完全貨幣
貨幣は国内外問わず他人を搾取するための、交換の働きを早めるための手の一つでもあった。18世紀になってもアキレスの盾の値を牛の頭数で数えたホメロス時代と等しかった。
商品交換が始まったとたん原始的貨幣が生まれた。一段と欲しい商品や豊富にある商品が貨幣=交換規準の役割を果たした。塩や人すらも。馬1頭=捕虜15人やインド更紗1枚=男子1名など。原子貨幣は貨幣としての様相・性質をことごとく備えていて、その紆余曲折はすなわち原始経済と先進経済との衝突の歴史だった。
18世紀ヨーロッパでは大量の金銭を用いて交換を行うようになっていたが、農村では直接交換によって必需品が相互供給されており、年末に少量の現金を使って精算を行っていた。給与も現物支給が用いられていた。為替交換は進んでいたが、これも物々交換の延長の仕組みだった。
原始経済とヨーロッパの中間に日本・イスラム圏・インド・中国が介在して活発かつ完全な貨幣生活にいたる途上の中間的状況となっていた。
日本では、17世紀に貨幣経済が開花したが、大衆にはほぼ無関係で米が昔ながらの通貨だった。侍は倫理として貨幣を考えることも口にすることも禁じられていたので貨幣経済への移行は緩慢だったが、租税等は銅貨で収められるようになっていった。
イスラム圏は貨幣組織を備えていたが、利益を得たのは十字路にあたるペルシア・オスマン帝国・イスタンブルだった。貨幣相場はイスタンブルで決まった。その地域では西洋の通貨が持ち込まれると造幣局に持参し鋳造費を支払って鋳直す必要があった。
インドでは紀元前から金貨銀貨が用いられていたが全国統一されず北部と南部で対立が存続した。金・銀・銅・宝貝がほとんど算出されなかったため、他国の貨幣・全世界の貴金属がムガル帝国と支配下の国家のために貨幣原料として供給された。このための支払いでインドは生活苦になり、補填のための産業(織物など)が発展した。
中国を理解するには周辺国などとの連繋・依存関係から考察するしかない。商業的結節点のマラッカ、香辛料を産するスマトラ島西端、銅貨が作られていたジャワ島以外は米が貨幣だった日本も含めて原始経済の諸国のそばで生活していた。そのため中国は諸国に抜きん出ているだけで十分なため貨幣経済は発展しなかった。しかし体系は別のまとまりや一目瞭然の統一性が備わっており、中国の貨幣は他の世界のものとは違っていた。
【わかったこと】
貨幣が物々交換が始まった時代から発生していったということから、貨幣の動きは人と人との関わりの動きでもある。一方で18世紀までほとんどの生活実態は物々交換が主体で貨幣はあくまで年末の精算用といった使われ方だったということからも、あくまで貨幣の日常における流通さらには資本主義の膨張といった昨今の動きも実はまだ最近始まったことなのだということがわかる。
そういえば現在の日本の地域でも、知人のデザイナーが農家のイベントのポスターをデザインしたときに支払いは米だったと言う。しかも市販価格ではなく農家価格なので、量も通常の数倍だったとか。働いてお金を稼いで結局米を買うのであれば、信頼関係(Credit)に基づくコミュニティであれば、貨幣はどこまで意味を成すのだろうか。
結局の所「信頼関係の無い者同士が交流する」ために便宜上編み出された道具であるのかもしれない。
となると銀行がお金を貸し出すことによって何倍もの預金通貨を生み出す「信用創造」ってとても皮肉な言葉だ。「信用が無い」から流通していったのが貨幣なのだから。