天使のモルガン
実はこの頃の私は、二人の男性から求愛されていました。例えるなら、二羽のオス鳥が競い合いながら同じメス鳥に求愛ダンスをしている状態でした。自由でいたくて、夢を追いたい私は、二人の愛に応えることなく外国に飛び出してしまいました。二人の男性はお互いを牽制しつつ、外国を旅する私にアプローチを続けていました。私は自分の夢を優先することで、傷つく人がいることへのプレッシャーと良心の呵責に押しつぶされそうでした。二人とも私のことなんて嫌いになればいいのに、と思っていました。
私は自分に一生懸命だったのです。
この頃の私には、誰かと愛を育むという幸せはまるで無意味なように感じられたのです。あまりも、自分の夢に純粋だったのです。
Wanakaを去る日、朝早いというのに、夜更けまで語り合ったのぞみさんが見送りに出てきてくれた。住所を交換するが、それらの住所は我々にはまったく役に立たないことがわかる。私は旅人、彼女はスキーヤー。半年後なんてどこの国にいるかもわからない。もしかしたら、日本にいるかもしれないけどさ。彼女も、11月になったら今度は、日本の雪山にこもってスキーだ。お互い、根無し草ですなー。ははは。
彼女に手をふり、一路、Christchurchへ。
Christchurchでは、プリシラの家に再び滞在。そこで体調を崩す。体調を崩すといっても、食欲がなくなっただけだけど。いやいや、私が食欲をなくすということは、タイヘンなことなのであーる。前日の夕飯もろくに食べず、朝食も抜かし昼食も食欲がないと言って断わると、さすがにプリシラが心配し始めた。もう一泊するかどうか聞いてくる。でも、私はもう同じ場所に留まっていたくなかった。プリシラが何気なく、しかもかなり強引に勧めるマフィンを無理やり口の中に押し込む。私は甘いものが大嫌いだ。甘い味付けのおかずもキライだし、お菓子なんてもっとキライだ。でも、プリシラが「今朝焼いたの」って強く勧めるから、食べてみた。苦いコーヒーで半ば流し込むように飲み込む。しかし、しばらくすると気分が悪かったのが少し良くなってきたような気がした。
「あなたはお腹が空いていたのよ。気がつかなかったの?」
そうか。私、お腹が空いてたんだ。いろいろと考えすぎて、知恵熱もとい、知恵腹になってしまったのだろうか。
ぽかぽか陽気の中、私はChristchurchを去ることにした。
ありがとう、プリシラ。ニコニコ笑っていたけど、本当は心配してくれていたんだね。プリシラのマフィン、私のお腹に効いたみたい。私はいつか必ず、旅先から彼女へ手紙を出そうと心に誓った。
ChristchurchからKaikouraの距離はたいして長くはない。数週間前に通った同じ道を戻るのだ。反対側から見る景色はどんなふうなんだろう。私はどんどん車を走らせた。Kaikouraには、モルガンがいる。でも、今夜はモルガンのバックパッカースには泊まらない予定になっていた。少し一人になって考えたいことがあったのだ。だから、今回はちょっと高くてもモーテルに泊まるつもりだった。
英国調のChristchurchの景色から、辺りは次第に自然が増えていく。緑に覆われた山、牧場、羊。少し私はいろんなことを考え過ぎなのかな。なんだか自分がわからなくなってきた。旅をしている自分が一番心地よいはずなのに、旅以外のことを考えている自分がいる。心の大半はもはや旅ではなくて、他のことを考えている。まったく自分らしくないことだ。私はこんな自分がいやだった。旅をしていない自分は、一体どこに進んでいるのかわからない。
目の前に広がる羊の群と広大な牧場を見て、いつかニュージーランドへ行ったら、こんな景色が見てみたい、と言っていた人を思い出した。見せてあげたいな、と思った。車の窓から見える景色はどんどん変わっていく。次に見えたのは美しい丘だった。これを誰かに見せたいかな。この感動を誰に伝えたいかな。自分に質問をする。次から次へと感動させてくれる景色を見るたびに、自分に質問をしていく。私は思考にのめり込んでしまって、まるで自分の中で、自分がもがいているような気分になってきた。胸が苦しくて痛い。どうしたんだろう、私。どうしたら、いつもの自分が戻ってくるんだろう。神様、私、どうしたらいいのかわかりません。
突然。
あまりにも突然、目の前で今までになく壮大な景色が広がった。
連なる緑の丘陵。羊は一頭も見当たらない。どこまでも続く丘の果てには、大きな大きな白い岩山がそびえていた。本当に美しい景色だった。これぞニュージーランドという景色だった。私は、「この景色を誰に見せたいの?」と自分に質問してみた。答えは明白だった。
これは、私が見たかった景色だった。
私が見たかったこの景色を、一体誰が、いつ、どうやって造ったのだろう。長い長い歴史の中、いつだってこの景色は存在していたはずで、この一瞬まで、いつもと同じようにそこに存在していたはずなのに、どうして今、私がそれを見つけて、こんなふうに感動しているんだろう。
恥ずかしいけれど、正直に白状すると、やっぱり神様っていつだってそこにいるんだなぁと思ってしまった。だって、あの景色を見た後、自分が自分である状態を思い出したから。
それからのドライブは、気分が良かった。何か、心が軽くなったような気がした。
この気持ち、モルガンに話したら、彼はなんて言うだろう。彼ならわかってくれるかな。でも、今日はモルガンのところには泊まらないし、どうしようかな。私から、彼のバックパッカースへちょっと顔を出してもいいかもしれない。んー。
そんなことを考えているうちに、Kaikouraへ到着してしまった。気分が軽くなったら、急にお腹が空いてきた。肉、肉が食べたいぞ。脂こってりの、ラム肉か豚肉が食べたい。モルガンのことは、腹ごしらえが終わったら考えよう。とりあえず、Kaikouraの小さな町で路上駐車をして、スーパーへ向かった。スーパーには生肉は置かれていない。肉屋を探そう。でも、どこにあるのかわからない。そうだ、この商店で聞いてみよう。小さな商店に入りかけようとしたが、店員が客と話しこんでいるのが外から見えたので、やはりスーパーに行こうと振り返った瞬間だった。
モルガンだ!
モルガンがビデオテープを持って、車から降りて歩いていく。
「モルガン!!」
モルガンが振り返る。モルガンの顔が曇る。だれ?という顔だ。しかし、それも束の間、モルガンの顔がぱぁーっと明るくなって、両手を広げて私のところへやってきた。
「ノリコ!どうしてここにいるの?」
聞けば、モルガンはビデオテープを返しに行くところだったらしい。それも、一本返すのを忘れているのに気がついて、取りに帰ってから、再びビデオ屋に戻ってきたとのことだった。いやー、偶然だねぇ。
私達はしばらく立ち話をしたあと、今夜、再会することを約束した。モルガンは私の部屋のほうが都合がいいというので、私が宿泊するモーテルで会うことにした。清らかなモルガンだからこそ、私も安心して「いいよ」と言える。
食事も済ませて、お腹は満腹。お皿も洗って片付けを済ませ、コーヒーのためのお湯を沸かしているとき、コンコンと小さくドアをノックする音が聞こえた。
おー、モルガン、今日は偶然だったねぇ。本当はモルガンと会うのをどうしようか迷っていたんだよ。でも、偶然会えたから、会えってことなんだよね。などと話ながら、再会を喜んだ。しばらく話していて、モルガンが安心したように言った。
「良かった、元気そうで。今日、ノリコから呼ばれた時、一瞬ノリコだって気がつかなかったんだ。それぐらい、なんだかしょんぼりして見えたんだよ。僕と初めて会ったときのノリコは、もっとキラキラしていたはずだったから、違う人かと思っちゃったんだ」
えー?そんなこと言わないでよ。恥ずかしいよー。うがー。うん、でも、実を言うとちょっと考えることがあったんだ。
コーヒーを飲みながら、ここ数日、私が悩んでいたことや考えていたことをすっかりモルガンに話した。そして、美しい壮大な景色を見て心が軽くなったことも。話し終わると、モルガンは少し涙を浮かべていた。
「僕はこんな美しい話を聞いたことがないよ」
モルガンはとてもピュアで繊細な人だ。私のこんな話で、そんなふうに感動してしまうなんて。でもね、私、モルガンにお話してよかったと思うんだ。だって、モルガンに話したらもっと気分が軽くなったの。
ねぇ、モルガン。最後に一つあなたの意見を聞かせて。
価値観が同じってどんなことなの?
"It's not what you like. I think it's how do you like... or why do you like."
-それは、君が何を好きかってことじゃなくて、どう好きなのか、どうして好きなのかってことなんじゃないかと思うよ-
という答えが、すぐに返ってきた。しばらく前まで、私は価値観が同じことって、趣味が合うこととか、好きなものが同じことだって考えていたけれど、それはなんだか違うかなって、旅をし始めてから気がついた。でも、じゃあ一体どんなことが価値観が同じなのかってことについては、解答を見つけられないままだった。
そうか。価値観って、同じであることよりもお互いを尊重し合えることが大事なんだね。同じであることと、尊重し合えることっていうのは同じことなのかな。私と価値観が同じ人なんて、出てくるかな。出てきたら私、どうしたらいいのかな。
「今、答えを探そうとしてはダメだよ。ゆっくり考えるんだ。今、ノリコが一番大事に考えていることは何かな?」
旅を続けることだよ。旅をしながら、書きつづけることだよ。
新しいことを見たり経験したり、いろんな人と出会って、いろんなことを学ぶんだ。経験したいんだ。自分がやりたかったこと、全部。
「そうだよ。だから、今はそのことだけを考えていればいいんだよ」
そうか。
なんかわかったよ、モルガン。本当はモルガン、神様なんでしょう。
モルガンは吹き出した。私も吹き出した。
そして、モルガンはそろそろ帰ると言った。
再び、モルガンと再会することを誓って、私達はサヨナラした。
ありがとう、モルガン。
私、なんだか、前に進んだような気がするよ。
(つづく)
答えが見つからない時って、やみくもに答えを探そうとしてもなかなか見つからないのですよね。でも、答えが降ってくる時は、自分にとってこれ以上ないっていうベストなタイミングなんです。そして、その答えは複合的で多次元的な真実に富んでいるのです。
つまずいたり、転がったりしながら、ひとつひとつ「生きる」ということに気付かされる何者でもない私。
次回の日記は、フェリーのクルー「ポール」との再会です。