どねがムキムキした話
私は年に何回か早朝の電車に乗る。
早朝とは言っても、朝の8時~9時代の電車だ。私にとっては立派な早朝だ。それは、高尾山にお花見という酒盛りをしに行く時であったり、澤乃井の酒蔵に遊びに行く等の主に “大人の遠足” に参加をする時である。
私はその度にとてつもない不安と緊張感に見舞われる。心拍数が上がり、ハァハァする。
電車は本当に難しい。
急行、快速、特急というどれも早そうで具体的にどう早いかが直感的にわからない名称。はやぶさとか踊り子とか、電車なのにロマンスカーとかいやらしい上に乗り物名が違うやつとか、脳内で地団駄を踏みたくなる。加えて、新宿駅のように巨大な駅になると全部で16番線もあったりして、ホームにたどり着くだけでも1000年生きてきた仙人のような形相になる。
遠方であれば必ず車で行く私だけれど、今日は行く先が酒蔵なので泣いてすがってやめてくれと言われても酒を飲むはずなので電車で出かけなければならなかった。
事前情報で、9時22分の電車に乗ることはわかっていた。それなら10分前に駅に着いていれば余裕のよっちゃんイカである。駅まではタクシーを利用した。ほかの電車に乗って余計な養分を使いたくなかった。今日、目的地に行くその電車に全霊で集中したい。
新宿駅東口でタクシーを降りた。
ここまで来れば楽勝である。
しかし案の定と言うべきか、私は改札口に行けなかった。早朝のせいか(世間的にはただの朝)人がまばらで、人の流れに乗るという戦法は早々に打ち砕かれた。目前にある案内板は私にとって何の役にも立たない。そもそも矢印に方向に行っても、大抵その矢印の先で行先案内が立ち消えるので矢印の先でかならず迷う。行き先案内はいつも途中までしか案内してくれない。行き先案内を作る人は行き先の途中で「合ってるよ!」とか「大丈夫だよ!」とかの激励板を設置するべきだ。
何とかギリギリの気持ちで改札までたどり着き、次に行き先の電車が来るホームを目指す。普通、いくつホームがあろうが、線路というのは南北とか東西とかそういった直線で並ぶものだと思うだろう。ところが、新宿駅はホームに向かう通路は直線ではなく直角に伸びているのだ。え? え? どっち? どっち? となるのだ。上を見る。矢印のついた案内を見て立ちくらみがした。あまりにも情報が多すぎて、どこまでをこの矢印が網羅しているのかが疑わしいのだ。だからと言って情報の少ない方の矢印に向かってはいけない。それは罠だ。よく見て。人がいない。このまま進むと、どこか知らないところに連れていかれる電車に乗ってしまう。
私は疑わしい方の矢印の先へ向かった。
果てしなく続く通路。ここは砂漠か。森の迷路か。東京というコンクリートジャングルはいつか私を呑み込み、ペッと吐き出され我に返ると、小鳥の鳴く神秘の泉の前で腰を下ろしている自分に気が付くのだ。ああ、なんて恐ろしい。
やっとの思いで12番線にたどり着いた。
私は一気に老けたような気がした。こんなにアンチエイジングを頑張っているのに。
ホームに電車がすべりこんできた。
しかし、これに乗ってはいけない。これは私が乗る電車よりも一本早い電車だ。一本前の電車は終着駅が違うと、亡くなった祖母が遺言に書いていた。私はその電車をやり過ごし、次の電車に乗った。
ここまで私の心拍数はずっと160をキープしていた。全力疾走もしていないのにもうヘトヘトである。
電車が進むにつれ、窓から見える景色がのどかになっていく。それにつれて乗客が減っていく。運よく座れた私はようやく落ち着けると思ったのも束の間、車内アナウンスに驚愕することになる。
「ドアは自動では開きません。お降りの際はドアの開けるのボタンを押してお降り下さい」
こんなところにも罠が仕掛けられているとは…!!
わなわなと震える下唇を噛んだ。
刻々と迫る乗換駅。大丈夫。私ならできる。私ならできる。(いや誰にでもできる)
ついに乗り換え駅に着いてしまった。私の前に降車客がいることを願ったが、思いのほかテキパキとドアに向かってしまい、自分が降りる人の先頭になってしまった。
電車がホームに差し掛かる。
私は直感的に “開く” のボタンを押した。開かない!? それはそうだ。まだ電車は停車していない。焦るな、私。私は震える手を握りしめ、固唾を飲んだ。電車が停車した。今だ!ボタンを押す。開かない!
「ランプが点灯してからボタンを押してください」
というボタン横のメッセージに気がついたのは、後ろの人がちょっと心配そうに私を見た時だった。
あ、知ってましたよ。
みたいな顔でボタンを押した。ドアが開いた。
私は種が弾けたように電車から飛び出した。
次のミッションがある。“乗り換え” だ。
乗り換えとは、電車を乗換えることだ。ああ、こういうのを進次郎構文というのだったか。テンパりすぎて文章もおかしくなる。乗り換えは、目の前の電車に乗るパターンとホームが違うパターンがある。
みんなが目の前の電車になんの疑問もなく乗り始めた。え? え? これでいいの? これでいいの? これ罠じゃない? だって同じ柄の電車だよ? 色使いもカタチも全部同じだよ? まさかとは思うけど、みんなグルじゃないよね? 私を新宿に戻そうという魂胆じゃないよね?
ホームでは「ご乗車お急ぎください」とアナウンスが聞こえる。もう後がない。不安が喉からせり出てきそうなのを堪えて、私は目の前の電車に乗った。車内の路線図で目的地の駅名を見つけると、心底ホッと胸をなでおろした。大丈夫。まだ詰んでない。
今度の電車には開閉ボタンはついているのだろうか。意外にも混雑している車内。人混みで開閉ボタンが見えない。あるのかないのか、またもや不安を抱きながら時を過ごす。夢中になってnoteを書いているせいで、電車が発進してるのか停車しているのかもわからないまま目指す駅に到着してしまった。これだけの人がいるのだから降りる人も一人ぐらいはいるだろうと高を括っていたら誰も降りなかった。私は少しトーンの高い声で「おります!」と叫んだ。察しのいい人が私をドアまで促してくれた、というか、みんなこの駅で降りないの? この駅以外でどこで降りるの? それよりボタンは? ドアのボタンは? 私は自分でも気が付かないうちに「ボタン…ボタン…」と呟いていたからか、知らない人がボタンを押してくれた。
こうして私は人様の優しさで降車できた。
駅に降り立つと、みんながスマートにICカードで改札をすり抜けていた。私も同じようにすり抜けようとスマホをかざすと「入場記録がありません」と叱られる。何度やっても叱られる。そのうちその日の待ち合わせの人たちまで集まってあーでもないこーでもないと騒ぎ始める。私は冷静を装い、インターホンで駅員を呼び出した。駅員はインターホン越しから考えうる全ての可能性を私にぶつけてきた。残金は確かか、タッチしたものは確実にICカードか。そして「タッチパネルには入場と退場とふたつあるんですけど、退場の方にタッチしてますか?」と聞かれる。
「あ! 入場の方にタッチしてたかm…」
(ガチャッ)
私がそう言い終わるよりも前にインターホンはガチャ切りされた。きっとこの手の会話を100万回やってきているのだろう。なんかごめんね。
晴れて私は改札から出ることが出来た。
小ぶりなロータリーに降り立つ時、私は両手を上げて「エイドリアーン!!」と叫びたかった。
いつの間にか私の心拍数はゾウより遅くなっていた。良かった。いろいろ本当に良かった。これで心置きなく日本酒が楽しめる。
ということで、今年一番の胸がドキドキした話を終えたい。