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退院前夜の事件

私は、夜の病院に興味があった。

入院当夜は、興味本位で一般の人が立ち入ることの出来ない時間帯を狙ってうろうろしてみたりもした。当直の看護師さんが忙しそうにしている様子も眺めた。

病院の夜はちょっと騒がしい。
どこかから聞こえるモニターアラームの音、永遠に終わらない電話の保留音みたいなショパンのノクターン、ナースコールの音等、昼間よりはずっと落ち着いてはいても、終わることなくこれらの音は流れ続ける。

どこでも眠れるからと、病院で安眠を期待していたがそれはすぐに諦めた。音が深刻なのだ。いちいち漏れ聞こえる音の理由が深刻なのだ。加えて定期的に看護師さんが懐中電灯を持って見回りに来るので、マインドがデフォルト罪人の私はとっさに息を潜めてしまう。

一方で、看護師さんは深夜に急変する患者さんが多いことから、深夜の僅かな音も聞き逃さないという。

私の入院していたフロアは整形外科の患者さんはほぼいなく、それ以外の様々な疾患の患者さんが入院されていた。私が入った部屋は廊下の突き当たりの一番奥の部屋だった。人があまり訪れず、患者さんの入れ替りもとても頻繁だった。恐らく、私の職業が女優と勘違いされていたことから、一目を避けたこの部屋に入院が決まったのだと思う。

経過も順調で、本来の退院日から4日も早く退院が決まった。
退院前夜、私の病室は年輩の女性がひとりと私きりしかいなかった。斜め前のベッドにいる彼女は、ずっと眠れないらしくテレビの灯りがカーテンから漏れていた。昼間の回診でのドクターの会話でも彼女は不眠を訴えていた。そして、看護師さんとの会話から彼女がとても面倒見がいい世話好きな人であることはわかっていた。

私は昼間のコーヒーが祟ったのか、トイレが近くて面倒に感じていた。何しろ、手術をした足には重たいアイスノンをふたつも当てていたし、それをどけてギプスを付け直すのには(同室の方はイヤホンを付けてるとはいえ)マジックテープの大きな音が立ってしまうし、足を床に触れないように松葉杖を手にするのも一苦労だったのだ。

私はそれらの難関を乗り越えて慎重に松葉杖を手にしてトイレに向かった。トイレ付きの大部屋だったのと、私は一番トイレに近いベッドだったのがありがたかった。

以前にも松葉杖は使っていたので、手慣れたものだった。事情を知らない看護師さんからは私が松葉杖の扱いに慣れていたのでまぁまぁ驚かれた。もしかしたらナースセンターでは”松葉杖の魔術師”と噂されていたかもしれない。いや、そんなことはない。

トイレのドアは横に折りたたむようにスライドするスタイルのものだった。しっかりと奥までスライドしないとまた戻ってきてしまうやつだ。深夜だったので、私は真っ暗な病室の中をひょこひょこ移動し、トイレのドアをそっとスライドした。既にギプスのマジックテープの音が暗闇に響いていたし、トイレの灯りや音など、同室の方に迷惑をかけるのが申し訳なかった。私はあまり音を立てないようにトイレに入り、用を足した。

トイレには洗面台が設置されており、トイレから出たところにも大きな洗面台はあった。しかし、真っ暗の中すぐ正面とはいえそこまで松葉杖で行くのは不安だったので、個室内の洗面台で手を洗っただけでよしとした。(昼間はそこで手を洗った後、外の洗面台でも手を洗っていた。手を洗うのが好きだから)びしょびしょに濡れた手でなんとかシートを引き抜き、ごみを捨て、トイレから出ようとドアをスライドした。あまり音を立てたくなかったので、そっと動かしたのがいけなかった。きっちり奥までいかず、ドアが戻って来てしまった。とっさに松葉杖で抑えようとした時だった。

手術をした側の松葉杖が床の水に滑って、私は態勢を整えることも叶わず転倒した。

自動的にスライドするドアが松葉杖を押しやりながらガチャンと閉まった。私はとっさのことだったので絶対使ってはならない左足に力を入れてしまっていた。腱を取ったばかりのハムストリングが肉離れのように痛んだ。私は悶絶しながら「やっちゃったぁ…!」と呟いた。

そこからが大変だった。
私は床にぺたんと座り、散らばった松葉杖を揃えた。そのまま立ち上がろうと思ったが、何も支えもなく片足で立ち上がるのは到底無理だった。ギプスをしているので前傾姿勢も取れない。片足で立ち上がれたとしても、その後再び転倒する恐れもある。しかも、転んだおかげで腰を強く打っていた。手術したところのハムストリングスも心配なくらい痛い。

私は途方に暮れた。
待てども暮らせども、一番奥のこの部屋で起こったことなど誰も気が付かなかった。イチかバチか、廊下に松葉杖を放り出そうかとも思ったけど、その手は松葉杖が命綱である私にとってそれは立ち上がることを完全に放棄した時まで取っておきたかった。仕方ない。これは迷惑を承知で声を上げるしかない。

「すみませーん!」

一度だけ、私は声を上げた。
これは一度だけのチャンスだった。深夜に大声を上げてはならない。そんなことをしたら三軒茶屋の酔っぱらいと同じになってしまう。他の人に迷惑になるのだけは避けたい。

先にも書いたとおり、看護師さんは患者さんの立てた僅かな音にも気が付くという。しかし、この時の看護師さんは誰一人として気が付かない。僅かな音どころか、私の助けを求める声すら聞き逃していた。

私は途方に暮れながら独り言のように「やっちゃったー」と何度か呟き、「どうしようかな。どうしたらいいのこれ」とか呟いていた。転倒してから結構な時間が経過していた。その時である。

シャッ!

同室の方のベッドのカーテンが開いた。

「人を呼んできましょうね」

そう言って彼女はナースセンターまで看護師さんを呼びに行ってくれた。おお、神よ…! っていうか、あなた具合悪いのだからベッドからナースコールしてくれるだけで良かったのに…。

離れたナースセンターから「え!? 転倒!?」という素っ頓狂な声が聞こえ、バタバタバタと駆け足の音が聞こえた。

「大丈夫ですか!?」

その後は大騒ぎだった。
やる気に満ちた10人くらいの看護師さんが集まって来て、私を立ち上がらせている間も次から次へと看護師さんが集まってきて大騒ぎ。本当に恥ずかしかった。だってさ、何事かと走って来たら、暗闇の中で私が両足を投げ出してマンチカンみたいに座ってるだけなんだからさ。

無事にベッドに戻された私は、その後血圧を測れらた。
上が136で下が81だった。
普段、上が90で下が50の私からすればずいぶん高い血圧だったと思うが、転倒して動揺するんだったら180くらいのレコードを残してもよかったのではないかと思った。

「おぬきさん、どんな些細なことでも大丈夫ですから、ちゃんとナースコールしてくださいね」

看護師さんが小さい子を叱るように優しく言った。
私はちょっとしょんぼりしながら、横になった。

その後、ドクターの診断で退院には問題ないとお墨付きを頂いた。

翌日、部屋を出る時に彼女に今一度お礼を伝えに行ったが、毎日眠れなくて辛そうだった彼女がこの時は私の声にも気づかずぐっすり眠っていたので、そのままカーテンをそっと閉めた。

深夜の孤独な転倒に、ああジルベールはオーギュと彼の友人のディナーを外から眺めた時、こんなふうに孤独を知ったのだな。今、私はジルベールと同じ孤独を抱えている…と深夜にジルベールを思ったということで、この事件の報告を結びたいと思う。

#風と木の詩

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