ベイブな生活
昔ね、『ベイブ』っていう映画があったんですよ。めっちゃかわいい子豚っちゃんが主人公なんです。その時に出てくる農家のお家が超メルヘンなんです。ああいうお家とのどかな生活にすごく憧れましたね。今や、ネオン咲くコンクリートジャングルで、酒とジャズにまみれて生活してますけど。
私はカズと一緒にホストマザーの運転する車に揺られていた。
今朝は、彼女のお姉さんのファームのお手伝いをしに行くことになっているのだ。そこのファームは酪農家で、ヤギ、羊、子牛、豚、子豚、アヒル、グース、そして鶏となんでもござれの本格ファームである。自家製の野菜も育てていて、食生活は自給自足という、私の夢の生活をリアルで行っていた。
泥でぬかった坂を車であがっていくと、丘の上に小さくてかわいらしい家が現れた。庭先には等身大の小人の人形が置かれている。まるで、映画『ベイブ』に出てくるお家のようだ。私達の乗る車を犬と猫が追いかけてくる。
到着するや否や、かつてはピンク色だったと思われる泥の付いた長靴を渡された。よーし、これで泥の中でもへっちゃらだぞー。長靴なんて久しぶりだなぁー。うきうきする私に与えられた仕事は、ヤギの乳絞りだった。うおーっ!!!『牛の世界』での屈辱を覆し、まずいヤギ乳の印象を払拭するチャンスが、今、この手に!!!
ファームの若息子から、中くらいの大きさの赤いプラスティックのボールを手渡される。
「ゲートの中の小屋にヤギを入れるから、これを持ってそこで待ってて」
息子の指差す向こうには、木の囲いがあって、その中に豚とヤギとグースとアヒルが大暴れ(そのように見えた)していた。どのようにゲートを開けるのかわからないので、ゲートをひょいと飛び越えた。着地する際に、泥が跳ねる。長靴のありがたさを感じた。長靴って便利だなぁ。かっこいいよ。
3頭のヤギが、ゴツゴツと体をあちこちにぶつけながら、ひっぱられてきた。台の上に鎖で繋げられると、じっと動かなくなる。ファームの若息子が、いったん乳を絞って見せてくれた。
「やってごらん」
初めて触れるヤギの乳袋。あ、温かい。それに、柔らかい。ぎゅって握っても痛くないの?
「だいじょうぶだよ。ぎゅーってやっちゃって」
恐る恐る、乳を握ってみる。うっ、乳袋の中で乳が上に上がってしまうのが手で感じられる。乳は出てこない。こんなふうにやるんだよ、と息子が再びお手本を見せてくれる。
実を言うと、私は長年乳絞りに憧れていたこともあって、乳を絞るときの理屈はわかっているつもりだった。しかも、私はいつの日か、夢を実現するときのために、乳絞りのイメージトレーニングまでしていたのだ。そして、その成果は今、見られない。
もう一度、根元から絞ってみる。今度は恐がらないでもうちょっと強く握ってみよう。
ぎゃっ。
ヤギがいやがって、私の手を足で蹴る。手を伸ばす、逃げる、伸ばす、逃げるをしばらく繰り返し、私の心が焦り始めた。あまりにもこの私は役立たずじゃないか?ここまで来て、迷惑だけかけて帰るわけにはいかない。これは、心を鬼にして、ぎゅっと乳袋を握るしかないんだ!
私は動くヤギを抑えて、乳を絞った。
じょー。
出たっ!!!やったー!やったー!出た、出た、出た、出た!出たっ!!!
あまりの嬉しさに、顔が笑ってしまう。うおー、絞ったら出たよー。でも、乳の出具合が、息子に比べて細すぎる。悔しいな、でも、もうコツは覚えたぞ。じょー、じょー、じょー。両手で乳を絞る。白い乳が赤いボールに溜まっていく。ああ、すごい!私、乳を絞ってる!
そこまでやって、私はふと思いついた。
一番フレッシュなヤギ乳を飲むのは、今がチャンスなんじゃないか?
「ああ、だったら絞って直接ミルクを口に入れればいいよ。」
え?とひるむよりも先に、息子はヤギの乳を口に目掛けて絞り始めた。乳は口からちょっと外れて、彼のほっぺで弾けた。息子が照れくさそうに、ミルクを袖で拭いた。私は乳を手のひらに絞り、一口飲んでみた。
おいしい…。
スーパーに売っていたヤギ乳は偽物だ。このヤギ乳も、確かに牛乳とは違う匂いがする。だけど、ほんのり甘くて実に濃厚なこのミルクの味は、スーパーのものとは比べ物にならないくらい美味しかった。口に含むと、ちょっとだけだけど、マトンのような匂いが残る。でも、真の栄養って感じがして、カッコよさは否めない。すごい!ヤギの乳って栄養だ!
さっきから、じっとこちらを窺っている猫ちゃん達。ヤギの乳を待ちかねているようだ。私は赤いボールから、猫達にミルクを分けてやった。猫はヤギの乳が大好きなようで、奪い合うように飲んでいた。うんうん、わかるよ。猫達は、誰に教わるわけでもなく、ヤギの乳が栄養だってことをちゃんと知っているんだ。栄養がいき渡っているせいか、ここの猫達は、イキイキしているもの。
すっかりヤギの乳絞りを終えた私達は、カズくんとホストマザーがいる牧場へと移動した。彼らは、一生懸命、卵拾いをしているところだった。大きな牧場には、一本だけ、背の低い横広がりな木がたっている。その根元に、鶏達の巣があるのだ。鶏は、その付近に卵を産み落とす。毎日拾い残しのないように、卵を拾わなければならない。さもなければ、卵が成長してしまう。慎重に辺りの草むらを探し、ようやくすべて拾い終えた。
ヤギの乳に、自然の卵かー…。
この素朴な生活は、将来の私のライフスタイルだ。
家畜の糞をミミズにあてがい、ミミズが糞を分解して土を造る。その土で野菜を作り、その野菜で料理を作る。余ったジャガイモの皮やにんじんのヘタなどは、家畜の餌としてあてがう。家畜から取れるミルクで、バターやチーズを作る。卵は放し飼いの鶏からもらい、時には家畜を絞めて肉を供給する。いつか必ずそんな生活を手に入れるんだ。それが将来の私のライフスタイルだ。
仕事を終えた私達は、お家に戻って体を暖めた。うー、寒かったよー。
息子がヤギ乳のたっぷり入ったコーヒーを出してくれた。ああ、温かい。熱いコーヒーで、手を暖める。悴んでいた指先に血が巡り始めた。
ヤギ乳の匂いがするコーヒーを飲んでいると、息子が言った。
「乳絞り、初めてなのにとても上手だから、明日もお願いするよ」
まじ!?合点承知の介だぜー!まっかせなさーい。
大喜びで胸を叩く。
帰り道、私はTakakaの大きな空に向かって、「しあわせだよー」と心の中で叫んだ。
Takakaでの生活は始まったばかり。
明日は一体何が起こるんだろう?
(つづく)
ファーム生活に憧れる前は、無人島で暮らすことを計画していました。現実的に計画すればするほど、早死することがわかったので諦めましたが、当時の私は何を目指していたんでしょうねぇ。無人島やファーム生活で人生のどんなネタを作ろうと目論んでいたのか、過去の私に聞いてみたいものです。
今では鉄筋コンクリートの建物の中で、電子レンジやオーブン、食洗機なんか使って買った牛乳とバターでパヤパヤした生活をしているわけですよ。しかも、生きていく糧は、泥とは真逆の、スポットライトの眩しい暗くてキラキラしたわけのわからない非現実世界でパヤパヤやる仕事なんですよ。
人生ってわからないものですね。