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#05 最初の出会いPart 1

S.F.に美味しいお寿司屋さんがあるよ、とビクターに連れていってもらったお寿司屋さん。その時は海外のお寿司事情が知りたくて、久しぶりのお寿司が嬉しくて、とってもいい一時を過ごしたのです。

車の手配が整い、ついに旅の出発が決まりました。私はアメリカ一周一人旅出発記念に、ちょっと奮発してもう一度お寿司屋さんを訪問したのです。

私はこの日の出来事を一生忘れないと思います。長いので二回に分けて書いていますが、とにかくこの出会いは何かスピリチュアルな感じだったのです。


その寿司屋を出る時、「また来てね!」と言われた。私は「また来ます」と答えた。

言った言葉は守りたい。また来ますと言ったからには、また来るつもりだった。

だから、私は再びこの寿司屋の暖簾をくぐったのだ。
寿司屋の名前は『鮨萬』。San Francisco Bush Streetにある。
さすがカリフォルニアだなぁと感心したのは、寿司ネタの種類がたくさんあることだ。ニュージーランドにも寿司屋はあるが、まるで相談でもしているのかというくらい同じメニューしかない。サーモン、アボカト、時々うなぎ。軍艦巻きのものがほとんどだけど、時々握り寿司も置いてある。それでも、ネタはサーモンとアボカトを中心としたものばかりである。海に囲まれた国だというのに、不思議なことだ。ちなみに、私はニュージーランドのカウンターのある寿司屋にはまだ行ったことがない。(オークランドにあるらしい)そこへ行けば、多少事情が違うのかもしれない。

今から20年くらい前の話ですので、今は状況が違うかと思います。

のりこの心の声

さて、鮨萬にはカリフォルニア(?)名物のソフトシェルクラブの揚げ物(おつまみ)から鯛、ヒラメ、ウニ、イクラまで、なんでもござれという具合にメニューは充実している。鮨萬のマスター兼寿司シェフのヨシオカさんは、アメリカへ移り住んでから今年で25年目。気さくなおしゃべりで、カウンターを盛り上げてくれる。

私はキリンビールを飲みながら、塩辛に舌鼓を打った。

マスターがカウンターの左手に座る、男性2人を紹介してくれた。彼らはここの常連だということだった。彼らもキリンビールを飲んでいる。お互いの名前を名乗って、乾杯だ。

ハンサムな中年男性の名前はテリー。その奥に座る若手の男性は、ダンと名乗った。テリーとダンは叔父と甥の関係にある。

「テリーさんは有名な写真家なんだよ。本当に有名なんだよ」

ほーぅ、また写真家かい? サンフランシスコだけに、そんな人が大勢いるのかもしれないなぁ。ダンはその助手をやっていて、今はまだ見習い中とのことだった。テリーは控え目に、そんなに有名じゃないよ、と言った。写真家というのは、それほど派手な仕事でもないから、有名になるっていうのとはちょっと違うのかな。

君はどうなの? と聞かれて、これから全米を旅する予定だと答えた。すると、彼は少し身を乗り出した。

「全部回るの?」

はい。出来るだけ多くの州を。

なんのために?

私は、物書きになりたいと思っているんです。私は、旅を通して出会った人達や経験したこと、思ったこと、感じたことを書き記したいと思っているんです。

すると、テリーが「まず」と人差し指を立てた。

「まず第一に、君の英語はパーフェクトだ。そこが一番重要なことだ。言葉は、この国でとても大事なことなんだ。それから態度。いつも堂々としていなさい。ねずみのようにびくびくしていてはダメだ。その点に関しては、君は大丈夫そうだ。でもいいかい? ここはアメリカなんだ。とても危険な国なんだよ。自分の身は自分で守らなくちゃいけない」

父に、人を信じていれば、大丈夫って言われました。

ノーノーノー! アメリカはそれほど甘い国じゃない。もしも誰かが殴りかかってきたらどうするんだい?」

うーん。殴られたら、困るなぁー。ほんとにそんな人いるのかなー。

「…これを取っておきなさい」

テリーがカウンターにスイスアーミーナイフを私に向けて滑らせた。分厚いスイスアーミーナイフは、テリーのぬくもりで温かかった。

「危険なときは、これを使いなさい。これが君を守ってくれるだろうから」

えええーーー。これを使ったほうが、よっぽど危険なような気がするよー。どうかこんな物騒なものを使うことがありませんように。出来れば、自分を守るためになんか使いたくない代物だ。でも、ありがとう。見ず知らずの私に、こんな高価なものをくれるなんて。

しばらく話しているうちに、話の流れがテリーの仕事の話に変わった。

つい最近にも、新進の写真家と会った話をすると「ふーん、その名前は知らないなぁ」とつぶやいた。その時感激した写真の話から、話題は"美"について発展していった。

私は、こねくりまわしてわけのわからなくなったものに、理屈をつけて「これが美だ」と説明するのはおかしいと思っている。美しいものは美しい。理屈なんていらないのだ。美しいものは、誰が見ても美しい。海に沈む真っ赤な夕日を誰もが美しいと思うように、美しいものに説明などいらないのだ。わけのわからない美を理解できないということは、決して恥ずかしいことではない。人に感激を与えられない芸術など、一人よがりの自己満足にしか成り得ない。それを「これはどういう意味があるのですか?」と作品に意味を求める人がいる。そして、それを得意になって説明する人がいる。甚だ滑稽なことである。芸術とは、美の表現なのである。美しいものは理屈なしに美しいのだ。

「僕のスタジオに来る?車でちょっと行ったところにあるんだ」

これは挑戦だろうか。 プロの写真家を目の前にして、美について語ってしまったことが、彼に火をつけてしまったのだろうか。そこまで言うなら、君の美への認識を確かめさせてもらおうか、と言っているに違いない。売られたケンカはもちろん買うさ。売られた挑戦だって、もちろん買っちゃうんだ。私には江戸っ子の血が流れてるんだからね。半分だけど。
我々は店を出ることにした。
もう夜更け近かった。

(# ちなみに、テリーが言った「君の英語はパーフェクトだ」という部分なのですが、あれは私があのセンテンスを何度となく人に話していたので、あの英語だけは完璧に話せるようになっていたのです。けっして私の英語はパーフェクトなんかじゃありません。#)

(つづく)


なんかまた熱く語ってるんすよ、若い頃の私ったら。やあねぇ。

今では芸術についての意見もあの頃と少し違っています。この仕事をするようになって、いろんな人からの意見を耳にしました。なんとなく今思っているのは、芸術ってその作品に触れた人がそう感じたなら、もうそれは芸術なんだなってことです。自分が自分の作品に対して「これ芸術」って言うのはなんか違うのかもって。

次回、テリーが本物だったってことがちょっとわかります。

#芸術は爆発だ

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