虹の根本を掘りたい
私の三枚目のアルバムプロデューサーは、サックス奏者だ。
彼は、外タレからの日本公演ではファーストコールで演奏をオファーされ、ジャズ誌や、管楽器専門誌では自分のコーナーがあり、表紙も飾る人物だ。長年世界のナベサダと共演し、テレビの音楽番組で演奏し、数々のアーティストとレコーディングをし、ミュージシャンとしての栄華をここに極めりというような存在だ。もう、追う背中もないだろう。そこまで昇り詰めて、一体彼は何を目指すことをモチベーションにしているのだろう。一度、そのことを尋ねてみたことがある。すると彼は、やや被せ気味にこう答えた。
「もっと上手くなりたい」
私はこの言葉を聞いて少しホッとしている自分に気がついた。
実は、自分の表現や技術に関して、私はまだ一度も満足をしたことがない。やっとやりたい表現が出来た、やっとこのレベルに手が届いたと感じても、気がつくと届いたはずのものはいつの間にか遠のき、またしてもその道程が長いことを思い知らされるのだ。それは永遠に終わらない課題のように続いていく。それはまるで、どんなにレベルアップしていっても、永遠にラスボスが現れることのないダンジョンのようだ。一生終わることのない研鑽の旅である。
雲の上の人たちは、とっくにラスボスをやっつけて研鑽の旅を終えたと思っていた。彼らは仙人のようにひょいと世界を作り、いともたやすく音楽のタペストリーを紡いでいるのだと思っていた。私がどんなに前に進んでもラスボスと対戦出来ないのは、私の実力が不足しているからなのではないかと感じていた。どんなに美しいタペストリーを紡いでも、更に美しい模様があるはずだと渇望してしまうのは、私の中に満足するに至らない理由があるのだと思えて仕方なかった。それはまるで、どんなに美味しいラーメンを食べても、食べたそばから「もっとうまいラーメンが世の中にはあるはずだ」と次を目指してしまうラーメン侍の気持ちと同じなのかもしれない。そう。ラーメン侍もミュージシャンも結局みんな、永遠に満足することのないコスモポリタンだったのだ。
こんな幸せなことってあるだろうか。
研鑽の旅には終わりがないと確信した瞬間、私は自由になった。肩が軽くなった。大好きな音楽で満腹になる日は訪れない。ずっとずっと好きなだけ大好きでいられる。
いくつかのライブを終えて、少しインターバルができた。
そうすると、今度は無性に何かを書くたくなった。キーボードの音と感触が欲しくなった。そうだ。私は書くことも大好きだったのだ。さて、何を書こうーーー。
書きたいことはいくらでもあったはずなのに、PC画面の前でそれらが霧散していく。あれこれ考えるまでもなくキーボードの上で指を這わせていたら、気がつけば音楽への思いをハァハァしながら書いていた。少し恥ずかしい。次は何を書こう。そうだ。今夜作る予定のチョモランマ焼きそばのことを書こう。チョモランマ焼きそばを作るために、ネットスーパーで六人前の焼きそばを注文したのだ。焼きそばは、全く具の入らない潔いものがいい。みんな心の底では、このキャベツ邪魔だなー、具とかいらねーなー、麺だけ食いてーと思っているのを私は知っている。肉まんなら皮だけよこせ派と中身だけよこせ派に分かれるところだが、焼きそばは麺だけよこせ派の一択だ。なぜか? なぜなら、焼きそばの具だけよこせ派がいるのだとしたら、野菜炒め食ってろや勢が黙ってないからである。
おや、私は一体何を書いているのだろう。
さて、大好きなお料理をしよう。日の暮れる前の具なし焼きそばは、きっと最高だ。
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