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魂の視点
こんにちわ。毎日暑いですね。私は今年、畑を荒らしてしまいました。
午前2時や3時にでも起床しなければ、朝5時にはもう外が暑くて管理できないのです。
そして私の仕事はいわゆる「遅番」で、とてもそんな時間に起きられない。畑に出る前に、愛する猫たちのリクエストに応えなければいけませんし、そうこうしているうちに時刻は午前6時。1時間ほど作業しただけで汗だくで、熱中症の初期症状のような状態になることも。
これはもう仕方ない……けれど同時に、情けなさや、野菜に対する申し訳なさ、やるせなさで胸がいっぱいになります。
こうやって、私たちは生きている限り「辛い・悲しい・悔しい・苦しい・憎い」など「マイナス」イメージの感情と常に付き合っています。
悩みも苦しみも、痛みも怒りもない、そんな世界へ行けたなら……と思うことが多々あるでしょう。私は自分を特別な人間だとは思いません。だからきっと多くの人が、同じように思いを馳せるのでしょう。苦悩のない平和な世界、つまりそれはそう、天国に。
この田舎町(祖父母の家)に越してきて9年目になります。
それまで、そこそこ都会で一人暮らしをしていたわけですが、愛猫ロメオと出会った途端にその自由を捨てて、祖父母と母の暮らす田舎へ行こう、と思い立ちました。仕事を辞め、引っ越し業者を決め、不用品を処分していたその頃、夢の中に亡くなった叔父が現れました。
叔父は祖父母、母と共に暮らしており、60代の若さで病気により他界しました。幼い頃に聴力を失い、苦労の多い人生だったと聞いています。
一方で叔父は車の運転とカメラが趣味で、ひとりでふらりと遠方の観光地へ赴いては、写真を撮って楽しんでいたようです。
そんな叔父が夢の中で、かつて彼の自室だった部屋の外に立ち、斜め掛けのバッグを両肩に下げ、更に2つのバッグを手に持ち、首からはカメラをぶら下げて、ニコニコしながら私に向かって「バッバイ」と言いました。
バッバイ、それは耳のきこえない叔父の、独特な発音での「バイバイ」です。別れの言葉を口にしながらとにかくニコニコしていて、嬉しそうで、そしてあまりにリアルだったもので、私はガバッと体を起こし「おんちゃん!」と大きな声を出してしまいました。
少しの間、夢だと理解できずに辺りをキョロキョロ見渡して混乱したほどです。
やがてすぐに私とロメオは引っ越しました。私は祖父が使わなくなった部屋を自室にしたいと希望したのですが「こっちの方が広いから」と母に推され、叔父の部屋を譲り受けることになったのです。
すぐに理解できました。叔父は、私が部屋を使うことを、そしてこの家に仲間入りすることを歓迎し、嬉しく思ってくれたのだと。
その後、再び叔父は夢に現れました。
そこは私が最初に狙っていた元・祖父の部屋(ちなみにこの時祖父は健在でしたが、もう自分だけの部屋はいらない、と言って使わなくなっていた部屋です)で、叔父は素敵なソファにゆったりと腰を下ろし、目を閉じ、レコードを聴いていました。耳がきこえないはずの叔父がです。
そして彼はうっとりとした様子で言いました。
「オーケストラは良い。指揮者がタクトを構えた時の緊張感、あれほど素晴らしいものはない」
それは初めて聞く叔父の本当の声であり、それでいてテレパシーのようなものでした。叔父の口は動いていないのです。
そのあと、叔父は馴染み深いあの独特な発音で「ガッパレ」と言い、拳をガッツポーズのようにして見せてくれました。
「ガッパレ」は叔父の「頑張れ」です。
あれから数年が経ち、今年の猛暑の中ぐったりとしながら私は思いました。
叔父は「天国」では耳がきこえる。
ロメオも、もうどこも苦しくない。
天国。まさに天国は天国、極楽なのではないかと。
じゃあ何故、私たちは生まれてくるのか。
わざわざこんな、苦しみ怒り、傷付き傷付け、衝突したり憎しみあったり、悔しかったりするこの世界に。
怪我をし病気をし、時に障害を負い、そして老いてゆく、上手くいかないことの多い肉体に。
想像しました。
暖かく、穏やかで、痛みも老いもなく、争いもなく、ただただ平穏な世界を。
そしてふと思いました。
楽しい・嬉しい・平和である。
それらの私たちを「プラス」イメージに傾けるもの、つまり娯楽の全ては、私たちがマイナスにイメージするものが無くては生まれないのだと。
悲しさ、怒り、苦しみ、疑い、争い、痛み。
それら無くして、文学も音楽も絵画も映画も、スポーツも生まれない。
なぜなら、圧倒的に感情が足りないから。
悲しみがあるのは喜びを知っているからで、喜びを感じるのは悲しみを経験しているから。
もしかすると魂は、肉体を持つことで得られる複雑な感情を体験したくてわざわざ生まれてくるのではないか。
だとしたら私たちは、この地上で肉体を持ち不便に生きているだけですでに、全て持っている。
そこに至った時、愕然としました。
同時に、どうしても受け入れられないことがあります。
それは、生まれて間もない命が世界を見ずに幕を下ろすこと。
子供や動物が圧倒的な力によって虐待され生涯を終えること。
理不尽な扱いによって心を病み、自ら生涯を終える人がいること。
不平等な条件下で手も足も出ず命を落とすこと。
言い出したらキリがないほど、いくらでもあります。
それすらも「自ら望んで生まれた」? そんな馬鹿な。
分からない。これもまた、私が感情を揃えて生きる肉体だからなのでしょうか。しかし、だとしても、だからこそ、受け入れ難い。
私たちは平和を望み、焦がれ涙しながら、あらゆる感情から生まれるものを求めて生きている。矛盾に満ちた命です。