フレフレ、わたし

雨宮まみさんのエッセイをまとめた書籍
「40歳がくる!」を読む。

”いつまでも若い人でいたいわけじゃない。
もうババアですからと自虐したいわけじゃない。
私は私でいたいだけ。
〜どうやったら私の「40歳」になれるだろうか。”


帯に書かれた一文が、40歳を迎えた(と書いてみたものの、こちとらお迎えしたつもりはさらさら無く、気づけば数字が40になっていたし、ウェルカムでは全然ない)ばかりの私の細胞にもうどうしようもなくビンビンきてしまったのだった。

さまざま思うことはあれど、読み終えた私はいま、
なんだか清々しく自分は自分、と向き合える姿勢をとりはじめている。

「もう他人の尺度など知らん。我が道を邁進するのみ」
「なんでもいいから剥き出し丸出しの自分の言葉を記しておきたい」

この本を読む少し前、Xの鍵垢で推しだの愚痴だのを吐露するメンタルケアがお勧めだよと友人に教わり、早速アカウントを作ってみたものの、あまりに誰一人見ていない空間にボールをぽいぽい投げ込むのはワンバウンドもせずブラックホールに吸い込まれてしまうようで、そのままふわっと蒸発して無かったことのようになりそうで、まだ一度もポストできていないままだった。自分はスタバで仕事してるときくらいの、他人が干渉せずとも存在している緊張感が好きなのかも。そしてそこから奇跡的に生まれる出会いにどこかで期待もしている。そして自分のコミュニティ以外の、フォロワーに知り合いが一人も居ないアウェーで素の自分(とは)を曝け出してみたい衝動に駆られ、久しぶりにnoteを開いている。

思えば昔はあらゆる場に顔と首を突っ込み、薄〜く広〜くゆる〜い湯葉みたいなネットワークでぬるぬると社会と繋がっていた。結婚して、出産して、パンデミックがあって、30代後半になって、家庭とその半径3メートルくらいの世界に軟禁されているような感覚な昨今、それがリアルでなくともオンラインに求めてみてもいい気がしている。というか、ネットで友達を作る行為は私の原点でもある。(インターネットネット黎明期の中〜高校生時代、仲の良い友達のほとんどがネッ友(って何?初めて言ったわ)だった)
さらにそんな場で、魔法のiらんどか前略プロフかってくらいに自分のことばかり、見栄も恰好つけも忖度もなしに、自分の内面から湧き出る感情を言葉を大切にしてあげたいと思い始めた。

セルフケア、セルフラブ。これまでは自分のための消費や投資、ありのままの顔や体型を愛すとか、表層的な意味合いでこの言葉を捉えていたように思うが、ここにきてその真髄を勝手に掴みかけている気がする。

どんな感情も否定しない。ただ、受容する
正しいも間違いもジャッジしない。ただ、受容する
自分の人生の舵を他人に任せない。
人のせいでも、自分のせいでもない。
なぜ、いや/悲しい/怒りを感じたのか。感情の原因の正体を丁寧にほどいてゆく。

自分への態度はきっと他人への態度になる。
自分ちゃんをとことん受け止めてあげることから見える世界がきっとある。

雨宮さんが派手なドレスやバッグを躊躇なく買ったように。
私は今日、自動車教習所に電話し、面談の予約を取り付けた。

「なんでもできる!なんでもなれる!フレフレわたし!」
          (『HUGっとプリキュア』第48話)


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