先日、とある子育て支援に関する政策について「事情があって子どもを持てなかった人や、結婚や子育てに興味のない人もこの予算を捻出していると思うと納得いかない」みたいなコメントを目にして驚いたので、
あらためて「なぜ、子育て支援、出生率の向上は世の中の誰にとっても良いことになるのか」というのをメモしておく。
著書に「子育て支援の経済学」などがある東京大学経済学研究科教授・山口慎太郎さんのインタビュー記事をかなり引用しています。
子育ての費用は親個人が負担するのみだが、子どもの恩恵は誰しもが受けている
3歳児を育てる私も、子育てというのものは24時間365日休みがなく、一個人が命と精神を削ってなんとかギリギリ成り立っていることを身をもって実感している。
しかも、育児は無報酬だ。そのうえ誰に頑張りを認められるわけでもなく、社会と分断され、親は常に孤独にさらされている。
どうにか、やっと、街へ出ることができても「子連れなのに◯◯するなんて」「これだから子連れは」「母親のくせに」「ベビーカー様」などとレッテルを貼られ邪魔者扱いされる。
とにかく子育て中は眠れない。飲食や排泄すらまともにできないこともある。自分の時間はほとんどなく、”公共”交通機関のはずである電車やバスの移動すら困難。好きな仕事も諦めるしかない。入りたいお店に入れない。着たい服を自由に着られない。
これまで当たり前だと思っていたことが全て制限されるなか、社会の風当たりも強いとなると、このまま子と共に死んでしまおうか、とふと頭をよぎった親も少なくないはずだ(私はある)。
子育て支援は次世代への投資。 日本は投資額が突出して低く、効率も悪い
子育て支援は「男女平等や女性の地位向上」も促進する
さらにコロナ禍で、女性全体の就業者数・雇用者数がともに男性に比べて大きく減少したというデータも。この裏には女性の非正規雇用が多いこと、夫より妻のほうが家庭で育児せざるを得ない風潮があることが挙げられる。
子育て支援への支出は出生率に直結する
また個人的には、男女平等だけでなく、社会全体が子育て支援に前向きになることで、さまざまな社会的弱者が働きやすい・生きやすい社会を目指せると考えている。
自分もその立場になり(なぜ子持ちが社会的弱者になるのか=こちらの記事参照)、ベビーカー移動が車椅子の方の事情とも近いこともあり、身体的・精神的に障がいのある方が自由に外出できないことや、移動手段も限られることを身をもって経験している。
また健常者であっても、昼夜問わず親族の介護をしている人の気持ちは、乳幼児のケアとも近いものがあるかもしれない(一括りにできないが)。
全く同じ状況でなくとも、大変な思いをしている人に思いを馳せること、関心を持つことが自然とできるようになってきた。
弱者が暮らしやすい社会は、誰にとっても、自分にとっても暮らしやすい社会
「子育て中の人」というのはこの中でも一番よく目にする存在ではないだろうか。当たり前すぎて、身近すぎて気にしていない人も多いかもしれないが、ベビーカーを押す人が何に困っているのか。子どもが泣いたり癇癪を起こしている親にどう寄り添えるのか。それをちょっと考えるだけでも、さまざまな弱者に手を差し伸べるきっかけになる。
子どもを持たない選択はできるかもしれないが、介護や、事故や病気などによる障がいはいつ自分がそうなるとも限らない。年を重ねれば誰もが高齢者になり、さまざまな不便に気づくだろう。
弱者が暮らしやすい社会は、誰にとっても、自分にとっても暮らしやすい社会であることに間違いないのだ。
親。友人。恋人。大切な誰か。それが自分自身であってもいい。誰かのために、自分のために、生きやすい・暮らしやすい社会を願うことが、子育て支援の第一歩だと私は考えている。