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『エデンの東』について

『The Shipper』考察記事の後半をお読みいただくにあたり『エデンの東』について説明します。この小説を良くご存じの方は読む必要はありません。ほぼ原文を引用しているだけの記事ですので。

エデンの東は、旧約聖書[創世記]のカインとアベルの物語をモチーフに描かれた、ジョン・スタインベックの長編小説です。

カインとアベルの物語は、創世記の4章にあり、『エデンの東』の中では「たったの16節の短い物語だ」と言及されています。カインとアベルはアダムとイブの息子です。カインは農耕を営み、アベルは羊飼いになります。それぞれの生業から得たものを神への捧げ物としたところ、神はアベルの捧げ物のみに興味を示したため、カインは怒りを感じ、後にアベルを殺してしまいます。この、兄弟間の確執や(神を父とみなした場合の)親子間の確執を元ネタとして書かれたのが『エデンの東』です。

以下に、創世記の該当の16節を引用してみます。


創世記


4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」
4:10 主は言われた。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。
4:11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。
4:12 あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる。」
4:13 カインは主に言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。
4:14 あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」
4:15 主は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」主は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。
4:16 カインは主の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会 https://www.seisho.or.jp/


『エデンの東』では、重要な言葉は全て中国人料理人のリーという人物が語っています。リーの思考は、スタインベックの思考そのものだと思われますが、当時のアメリカの常識とは少し外れた思考を語らせるのに、当時の一般的なアメリカ人とは違った背景と常識を持った異邦人であるリーという人物が必要だったのでしょう。以下に引用するのは、『エデンの東』の中で、カインとアベルの物語について議論する部分です。登場人物はアダム・トラスクと、トラスク家の料理人、中国人リー、そしてアダムの隣人、サミュエル・ハミルトンです。アダムは愛する妻が双子を出産してすぐに子供を残して家出してしまった事にショックを受け、生きる気力を失ってしまいます。そのまま1年以上、双子に名前も付けないままに放置し、幸いリーが最低限の子育てはしていますが、親の愛情も無いまま育つ双子を見かねたサミュエルが、アダムを諭し、名付けを行う事になります。双子の名前を聖書の中の人物からもらおう、という事になり、聖書の内容についての会話が行われる場面です。

「僕は神に腹を立てた覚えがありますよ」とアダムが言った。「力インもアベルも供え物をした。なのに、神はアベルだけを受け入れて、力インを退けた。これが正義とは思えませんでした。これはどう理解すればいいのですか」
「考えの拠り所となる背景が違うのではないでしょうか」とリーが言った。「確か、この物語は牧畜の民によって書かれたものでしょう。農耕の民ではありませんでしたよね。羊飼いの神なら、大麦一束より太った羊のほうを好んだでしよう。生贄というのは、最善・最高でなければなりませんから」

(略)

「なるほど」とアダムは興奮して言った。「でも、神はなぜ力インをとがめたんだろう。それは不正義だ」
「言葉はよく聞くものだぞ、アダム」とサミュエルが言った。「神は力インをとがめてはおらん。神にも好き嫌いがあってよかろうから、仮に神が野菜より羊肉を好んだとしよう。わし自身の好みとも一致する。で、力インは神のもとへ人参を抱えてきた。そこで、神が言った。こんなものは好かん。やり直せ。何かもっといいものを持ってこい。そうしたら、弟と同列に扱ってやる……。だが、力インは腹を立ててしまった。感情が傷ついた。人間というものは、感情が傷つくと何かに当たりたくなる。たまたま、アベルに怒りの矛先が向いた」

(略)

「…… 偉大で生き長らえる物語は、あらゆる人間の物語である。さもなくば忘れられる。いかがでしょう。かかわりのない遠くの話はおもしろくない。身近で見慣れた話だけがおもしろい」
「力インとアベルの話に当てはめられるだろうか」とサミュエルが言った。
突然、「僕は弟を殺さなかった」とアダムが言った。そのまま口をつぐみ、心の中を過去へさかのぼつていった。
サミュエルの問いかけに、「できると思いますよ」とリーが答えた。「これが世界中で一番よく知られた物語であるのは、誰も彼もの物語だからです。人間の魂を象徴する物語だと思います。手探りしながらやってみますから、ときどき訳のわからないことを言っても勘弁してください。さて、子供にとって最大の恐怖は、愛されないことでしょう。拒絶されることこそ、子供の恐れる地獄です。しかし、拒絶は、世界中の誰もが多かれ少なかれ経験することでもあります。拒絶は怒りを呼び、怒りは拒絶への報復としての犯罪を呼び、犯罪は罪悪感を生じさせます。これが人類不変の物語でしょう。もし拒絶を無くせれば、人間はいまとは違う生き物になれるでしようね。たぶん、頭が変になる人も少なくなるでしょうし、牢屋もきっとあまりいらなくなります。すべての出発点は、ここ、拒絶です。ある子は、切望する愛を拒絶され、腹いせに猫を蹴とばして、罪悪感を心にしまい込みます。また別の子は、愛されることに金の力を利用しょうとして盗みをします。さらに別の子は、世界を征服します。拒絶、怒り、報復、罪悪感。この繰り返しですね。罪悪感を持つ動物は人間だけです。あっ、もう少しで終わります。だから、この恐ろしい昔話が重要なのは、それが魂の軌跡であるからにほかならないでしょう。拒絶され、秘密を抱え、罪悪感に悩む魂。旦那様は、さっき、弟を殺さなかったと言い、そのあと何かを思い出されました。それが何か、わたしは知りたくありませんが、力インとアベルの物語とさほど違わない何かではないでしょうか。以上です、ハミルトンさん。……」

エデンの東 22章4 ジョン・スタインベック著 土屋政雄訳 早川書房 2005年


この小説の主題は、ヘブライ語のtimshelだと言われています。timshelという言葉は、近年日本ではフィギュアスケート選手であった町田樹氏が言及したことで知られている言葉でもありますが、言葉の意味するものについて、誤解を受けないように原文を引用します。かなり長くなりますので、途中ちょこちょこ省略します。双子の名付けから10年近く経ったのち、再びアダム、サミュエル、リーの3人が食卓を囲み会話をする場面です。リーの言葉からはじまり、それに答えるのがサミュエルです。


「あなたが『創世記』第四章の十六の節を読んで聞かせてくだすって、わたしたちがそのことについて議論したときのことを、あなたは覚えていらっしゃいますか?」
「覚えているとも。あれはずいぶん昔のことだったなあ」
「もう十年近くにもなりますね」とリーが言った。「ところで、あの物語があまり心にこびりついて離れなかったものですから、わたしは一語一語あれを吟味してみたものでしたよ。あの物語について考えれば考えるほど、わたしにはそれが意味深いものに思えてきました。そこでわたしは現在ある飜訳を比較してみたのです——みんなかなり似たものでしたがね。ただ一カ所だけ、気にかかるところがあったんです。『欽定訳聖書』にはこうあるんです——それはエホバが、なぜ腹をたてているのかと力インにきくところなんですがね。エホバはこういうのです。『汝もし善きを行わば、〔顔を〕挙ることをえざらんや。もし善きを行わずば、罪門戸に伏す。彼は汝を慕い、汝は彼を治めん』とね。わたしがハッとしたのは、この『汝は——せん』(thou Shalt)という言葉だったんですよ。というのは、これは力インが罪を征服することになるという一つの約束だったものですからね」
サミュエルはうなずいた。「それなのに力インの子孫たちは必ずしもそうはしなかったというわけだね」
「次にわたしは『アメリカ標準訳聖書』を一冊手にいれました。……ところが、その訳ではここの箇所が違っていたんですよ。それには『汝、彼を治めよ』(Do thou rule over him)と訳されてあるんです。さてこれはたいへんな違いです。これは約束ではなくて、命令なんですからね。そこでわたしは、この箇所を熱心に研究しはじめました。こんなにもひどく違って飜訳することができるなんて、一体元の作者の元の言葉は何という言葉だったのかしらと思ったものですからね」
サミュエルが手のひらを食卓において、前にからだをのりだした。するといつもの若々しい光が彼の眼の中に現れた。「リー」と彼は言った。「まさかおまえはへブライ語を勉強したというんじゃあるまいな!」
リーが言った。「そう申しあげようと思っていたところでしたよ。でも、これはかなり長い話なんです。……」

(略)

「わしは、おまえがなぜそんなに心をひかれたのか知りたいよ」と彼は言った。
「それはね、こんな偉大な物語を考えだすことができるような人間は、自分の言いたいことをはっきりと弁えていたはずだし、そういう人間の書くものに混乱は決してあるはずがないと思われたからですよ」
「おまえは『人間』と言うんだね。じゃ、おまえは、これが神さまのインキだらけの指で書かれた神聖な書物だとは考えないのかね?」


【リーは一族の協会本部で、中国人の老師たちと、ヘブライ語の研究を行う】


「…… 二年たつと、わたしたちは、もうあの『創世記」第四章の十六の節に手をつけてもいい、と思うようになりました。老師たちもまた、これらの言葉——『汝——せん』という言葉と『汝——せよ』という言葉をたいへん重要なものだと考えていましたよ。そしてわたしたちが掘りあてた黄金はと言えば、それは『汝——することあるべし』(Thou mayest)ということだったのです。『汝は彼を治むることあるべし』なんですよ。……」
サミュエルが言った。「これは途方もない話だわい。そしてわしはおまえの話についていこうとしていたんだが、どうやらどこかで道を見失ってしまったようだよ。どうしてこの言葉がそんなに大切なのかね?」
……
「おわかりになりませんかね?」と彼は叫んだ。「『アメリカ標準訳聖書』は罪を支配するように人間に命令しているんですよ。そしてこの場合、罪とはいわば無知ということにほかならないんです。一方『欽定訳聖書』の方は、『汝——せん』という言葉の中に一つの約束をしているわけで、つまり人間はきっと罪を支配するようになると言っているんです。しかし、ヘブライ語のtimshelという言葉は——『汝——することあるべし』という言葉は—これは選択の権利を与える言葉なんですよ。これは世界中で一番大切な言葉かもしれませんね。これは、道が開かれているということを言っているんです。つまり、その責任をまっすぐ人間に投げ返しているんですよ。なぜなら、もし「汝——することあるべし』ならば——また『汝——せざることあるべし』ということも同様に真実なんですからね。おわかりになりますか?」
「うん、わかるよ。わかるともさ。しかし、おまえはこれが神のおきてだということを信じてはいないんだね。なぜおまえはその言葉の重要さを感じるのかね?」
「ああ!」とリーが言った。「長い間わたしはこのことをあなたにお話したいと思っていたんですよ。わたしはあなたの質問を予期してさえいましたし、準備は十分に整えていますよ。どんな書きものでも、無数の人々の思考や生活を支配してきたものは重要なものです。ところで『汝——せよ』という命令を感じて、服従ということを重要視する宗派や教会に属する人は無数にいます。そしてまた『汝——せん』という言葉の中に神の予定を感じとる人はさらに数えきれないほどいるんです。彼らが何をやっても、未来にこうなるということの邪魔には決してならないというわけなんですよ。しかし「汝——することあるべし』ということは!いやこれは、人間を偉大にし、神々に比肩するような背丈を人間に与えるものですよ。なぜなら、人間は、その弱さやその汚らしさやその兄弟殺しの中にあってさえも、なお選択する偉大な権利をもっているからです。人間は自分の道を選び、その道を戦いぬいて勝利を占めることができるんです」リーの声は歌うような勝利の調子を帯びていた。
アダムが言った。「おまえはそれを信じているのかい、リー?」
「ええ、信じています。ええ、信じていますとも。怠け癖や弱さから、神の膝に身を投げだして、『しかたがなかったのです。道が定められていたのですから』と言うのはたやすいことです。だけど選択の栄光のことを考えてごらんなさい!それは人間を人間にするものですよ。猫は選択の権利をもっていませんし、蜜蜂は蜜をつくるよりほかに仕方がありません。そこには何の神聖さもないんです。……この老人たちは真実の物語を信じていますし、彼らには、真実の物語は聞けばすぐにわかるんです。あの人たちは真理の批評家なんですよ。あの人たちは、この十六の節が、どんな時代にもどんな文化にも、どんな人種にも通じる人類の物語だということを知っています。だれかが十五と四分の三節だけ真実を書いて、しかもたつた一つの動詞で噓をつくなんてことをあの人たちは信じないんですよ。孔子は、りっぱに栄える生活をするには、どんなふうに生きたらいいかということを人間に教えていますが、しかし、これは——これは天上の星に登りつくはしごなんですよ」リーの眼が輝いた。「これを失うことは決してできません。これは弱さや臆病や怠惰の足を切りとって挫いてしまうものです」
「……そして人間とはたいへん大切なものだ——おそらく星よりももっと大切なものだということを感じるんですよ。これは神学ではありません。わたしには神々を信じる気持はありません。しかし、わたしは人間の魂というあの輝かしい道具に対する新しい愛をもっています。人間の魂は、この宇宙の中でほかに比べられるもののない、美しいものなんですよ。それはいつも攻撃されていますが、決して破壊されることはありません。なぜなら『汝——することあるべし』だからです」

エデンの東 第24章2 ジョン・スタインベック著 大橋健三郎訳 早川書房 1972年


ちなみに上に引用した2か所は、私のすごく好きな箇所でもありますので、読んでくださる方への共有という意味でも長めに引用してしまいました。怒られたら削除します。

ちなみにジェームス・ディーン主演の映画『エデンの東』はアダムの双子の息子世代の物語で、ジェームス・ディーンは双子のうちの一人、キャルを演じています。実は私、映画観てないのですけど、映画には一番重要な人物、リーが出てこないそうですよ。

*タイトル画像cr:GMMTV

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