「自分に負けたくない、ただそれだけ」想い、縁、絆が導いたトンテキ元気×浅草ちゃんこ場8周年の軌跡〜前編〜
浅草って、どんなイメージですか?下町?雷門?外国人の集まる観光地?――――でも、それだけではないのです。多くの老舗が伝統を伝える一方、新しい挑戦者も集う。古さと新しさが繋がる街、それが浅草です。
特に、浅草には多くの文化人を輩出した歴史があります。今もなおこの地に育まれ、経済、カルチャーなど新ジャンルで活躍する人は少なくありません。そんな「浅草人」の魅力にスポットを当てていきます。
株式会社マジナカンパニー代表取締役 内田剛(以下ウッチー)さん。
様々な飲食店での勤務経験を積んだ後、紆余曲折を経て「トンテキ元気/浅草ちゃんこ場」を開業。同店は、今や日本だけに止まらず、中国・台湾にまで進出しています。
「『人との縁と自らの想い』を大切に動いてきた」そう語るウッチーさんの今までの歩みと、浅草に対する想いに迫りました。
「1行間違いの電話帳」が運命を変える引き金に。ウッチーさん、埼玉の高校食堂に降臨!
ー「トンテキ元気/浅草ちゃんこ場」を始めようと思ったそもそものきっかけは何だったのでしょうか。
▲現在のトンテキ元気さん。
「料理を作って売る」ことや、店頭でお客様とやりとりすることが何より楽しかったんです。「自分のお店を持ちたい」という想いもあり、高校を中退。仲間内や知り合いの社長のもとで色々なことにチャレンジさせてもらっていました。
そんな中、当時の勤務先だった埼玉の給食センター宛に「埼玉の高校で食堂部門を立ち上げてみませんか?」と電話がかかってきたんですよね。
話を聞くうちに間違い電話だったことが発覚したのですが、せっかくの縁なのでお受けすることに決めました。電話帳を見てお電話をくださったのですが、1行誤っていたようです(笑)
ーなんと!!!その1行間違いがなければ、今のウッチーさんはいないといっても過言ではないと、そういうことですね。ちなみに、食堂ではどのようなことにチャレンジしたのでしょうか。
「もっと遊びの要素を入れたい!!」という想いから、21時まで営業し、スピーカーを置いて爆音で音楽をかけたり、美術部の生徒には食堂の壁に絵を描いてもらったりして、生徒共々食堂を盛り上げました。
その活動は新聞にも取り上げられましたね。
ースピーカー!!!え、めっちゃいいじゃないですか、羨ましい。いいなぁ、そんな高校行ってみたかったです...私、実はDJやってるので音楽好きで。
えっ、どこで?
ーasiaとかです。わかりますか?
あー!分かる分かる!あのクラブは知ってる??!あれだえっと(※以下しばしDJ談義)
▲クラブ事情に精通したウッチーさん。さすが音楽好き!(知らないクラブたくさんありました)
ー話がそれたので華麗に戻します。その後お店は?!お店はどうなったんですか?!
そうですね(笑)5年ほど食堂での勤務を続けた後、元々は「東京で店をやりたい」という想いがあったので、東京に戻って来ました。
その時、当時勤務していた給食センターの社長からの紹介で、「仲間」と出会ったのですが、互いの感性も合って意気投合し、すぐに、一緒にお店をやることを決めました。
ただ、お金がなく投資家に相談したところ「都内某繁華街の70坪の跡地で開業しないか」という億単位の話をいただいて。
某日本最大級の牧場のお肉も「政治家の紹介で安く仕入れられる」とおっしゃっていましたね。
「すげぇなぁ」と思いつつお話を受けたのですが、いざ物件を決めるというタイミングで店の鍵が変わっており、入れないことに気づきました。
ーぞぞぞ。ホラーですね...
そう、何だか首根っこを掴まれているようないや〜な胸騒ぎがして。「これでは気持ちよく仕事ができない。自分は"美味しいものを楽しく提供したい"だけで、俺が本当に実現したいことや、想いとはかけ離れている」と感じ、結局投資家にはお断りの連絡を入れました。
3ヶ月連続赤字。「店を買い取るか、辞めるか」究極の二択、ウッチーさんの決断とは。
その後、「仲間」が「やきとん元気」を秋葉原で立ち上げ、店長を務めました。
「鹿児島産黒豚の美味しいモツを仕入れたい」という想いがあったので、現地へ訪問し、ひたすら車を走らせましたね。
結果、色々なツテを辿って「かごしま南州農場」の生産者を紹介していただき、無事モツを仕入れることができたんです。
それからちょうど1年半経って店が落ち着いたタイミングで、「モツ以外の赤肉(トンテキ肉の部位)を使ってほしい」と農場からご相談を受け、ステーキハンバーグの店を始めました。それが「トンテキ元気」の始まりです。
▲南州農場には年1回訪問している。
ーおおっ!ここからまたウッチーさんの歴史がぐわっと動き始めますね。(BGM:情熱大陸のテーマ)ちなみに、お店はどちらで始めたんですか?
僕の実家は西浅草・浅草ビューホテルの近くだったのですが、祖父に掛け合い、1階の焼肉屋の店舗に空きが出たので使わせてもらうことにしました。
3年でビルが取り壊されることが決まっていたので、家賃も安くしてもらって始めることができたんですよ。
ーうおー、順風満帆なスタート〜〜〜〜!!
それが、全然うまくいかなくて。3ヶ月間連続で赤字が続いてしまい、当時の社長(仲間)から「このままでは誰も続かないから辞めることになる」と告げられました。
ーあれま...厳しいお言葉...
「まだ始めたばっかりだし、そんなの当たり前だ。頑張ってやってきたし、勘弁してくれ」と答えたのですが、「じゃあこの店を買い取れ。買い取らないなら潰す」と言われて。
ーひええ、いきなり究極の二択!!!!
「月給制で働いている、しがない雇われ店長なのに...どうやって買い取れというんだよ!!!」と思いつつ、「これはピンチでもあり、チャンスでもある」と思ったんですよね。「なにくそ、ふざけんじゃねぇ、やってやる!!!」と。
当時、お金がなく銀行からの融資が受けられない状況だったので、色々な仲間に頭を下げ、借用書もない状態で運転資金をお借りし、自分の事業として店を始めることにしました。
ーウッチーさんのそのパワー、本当にすごいです。
トキワ荘のごときアパートで、仲間と共に語らう日々。絆ができるも、延長戦ならず...
何とか店を買い取れたものの、やはり上手く行かない日々が続きました。
仕込みが終わったら近隣の店に顔を出して仲良くなり、家を兼ねていた自店に戻って寝泊まりする毎日でしたね。
その時、家賃に融通がきいたので、お店の上を仲間に貸して住んでもらっていました。
「どうせ取り壊すんだから、いいや!何でもやろう!」と、スケートランプをつけて遊んだりもしたなぁ。
ー僕も、住まわせてもらってました。(by COREZO!ASAKUSAデザイナー・くらはしりょうさん 以下くらはしさん)
りょうくんが「引っ越すところがなくて、どうしよう」って悩んでたから、「うちに住めばいいじゃん!」ってね。
「家賃が払えない」って時は「じゃあその分うちでアルバイトしてよ!」とお願いしたっけな。
洗い場で、溶岩プレートを洗っていたりょうくんのキラッキラした笑顔、今も忘れられないなぁ(笑)
ー当時フリーランスで画面に向かっていることが多かったから、洗い場に立った時は「何これ!!楽しい!!」って思ったんだよね(くらはしさん)
▲思い出話に花を咲かせ、嬉しそうなウッチーさん。
そうして時間をかけ、スタッフやお客様、内田ビルの仲間たちも含めた全員でお店をつくりあげていきました。日々大宴会で盛り上がる中で、今のトンテキ元気の礎ができていきましたね。「年中夢中」で営業してました(笑)
そんなこんなでお店が軌道に乗って来たと思ったタイミングであっという間に2年半が経過。
ー時の流れは早い...!!!
「とは言っても、5年くらいやらせてくれるっしょ!!!ビルを壊すのにも時間がかかるだろうし」と高を括っていたのですが、そこは厳しい祖父のこと、取り壊す数ヶ月前に改めてビルを壊す話をされ、「本当に物件を探さなければならないのだ」という現実がのしかかって来ました。
〜やっと盛り上がってきた店を差し置き、光陰矢の如く3年の契約期限が終了...ウッチーさんと、トンテキ元気の運命やいかに?!〜
後編に続く!!
この記事を書いた人
ふつかよいの タカハシです。
ふつかよいのタカハシです。三度の飯より酒を愛しています。
イッセイミヤケの販売員を経てアパレルメーカーの営業職に転職、その後フリーライターに。
COREZO!ASAKUSAを通し、ディープな浅草の魅力を発信していければと思います。